藤田嗣治の奇抜な髪型とファッション!丸メガネは大スターの真似!保存されたアトリエ

藤田嗣治の奇抜な髪型とファッション!おしゃれな丸メガネ、保存されたアトリエ

乳白色の絵画で独自の画風を確立した「レオナール・フジタ」こと藤田嗣治(ふじた つぐはる)。

100年以上前に活躍した画家ですが、当時としては奇抜だったに違いない髪型とファッションが話題です。

今回は藤田の髪型、ファッション、メガネについて確認し、独特だけれどおしゃれな画家として知られた彼のセンスを確認します。

また今も大切に保存されているアトリエについて紹介します。

藤田嗣治のプロフィール

洗礼名:レオナール・ツグハル・フジタ

本名:藤田嗣治

生年月日:1886年11月27日

死没:1968年1月29日

身長:160cm未満

出身地:東京市牛込区新小川町(現在の東京都新宿区)

最終学歴:東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)

藤田嗣治の髪型が奇抜!

藤田といえば、独特なおかっぱ頭を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。

一目彼の姿を目にしたら、そう簡単には忘れられないほどインパクトがありますよね。

20代の頃は髪型がオールバックだったことが、当時の写真や自画像から確認されています。

もともとは当時の男性の標準的なヘアスタイルを実践していたのです。

髪型に変化が生じたのは、画家修業のためパリに渡ってからのことでした。


初めて渡仏したのは26歳だった、1913年の夏。到着から1年後には第一次世界大戦が勃発し、大部分の在留邦人は帰国しています。

しかし藤田は残留を希望しました。家族からの送金も途絶える中、彼はパリで画家として生き残るため、ある決意をします。

戦争の影響や金欠によって床屋に行く余裕がなくなっても、自分で整えられる髪型にすることにしたのです。

こうして彼は、おかっぱ頭になったとされています。

もともと奇抜な髪型を好んでいたというよりは、社会情勢の変化によってやむを得ず実践した髪型だったのですね。

結果的に、個性的な芸術家たちがせめぎ合うパリにおいて、彼らと張り合うにはちょうど良い髪型になったのかもしれません。

藤田嗣治のファッションが独特

ただ「自分で整えられる髪型」というには、きれいなおかっぱを完成させるのは難易度が高いように思えますよね。

前髪を一直線に切ろうとしても手が震えるだけで失敗しやすいもの。

また刈り上げを完成させられる人材は、プロの美容師の中でもなかなか少ない印象があるかもしれませんね。

藤田は手先が非常に器用だったそうです。絵の才能だけでなく、手芸もうまかったため、妻の衣服を手作りすることもありました。

あらゆるものを手作りできる彼にとって、おかっぱは「簡単に整えられる髪型」だったのです。


ちなみに晩年に暮らしたパリ郊外にあるヴィリエ=ル=バクルの自宅には、藤田が生前作った手芸品の数々が保存されています。

室内には布製の装飾品や雑貨が並んでおり、それだけ手芸への情熱が強かったことがうかがえますね。

ボーダー柄からプリント文様の布地のほか、世界各国の旅先で収集したエキゾチックな柄の布地も好んでいました。

煙草をくわえたまま、足踏み式ミシンで作業していた藤田の人柄がしのばれますね。

藤田の独特な洋服も、やはり彼自身が手作りしたものなのでしょう。

スカーフやネクタイなどのアイテムも自分で作っていたはず。独自のファッションを貫く紳士だったのですね。

藤田嗣治の丸メガネはロイドの真似

藤田を印象づけるアイテムといえば丸メガネですよね。

実際に使っていたとされるフレームは「Lesca LUNETIER(レスカ ルネティエ)」のG.Burtです。

サイズは小ぶりですが、最大の特徴はその分厚さ。繊細そうでいて、よく見ると頑丈な印象がある不思議なフレーム。

藤田は1920年代のサイレント映画で活躍した大スターハロルド・ロイドが好きだったようです。

ロイドのトレードマークが丸メガネだったため、真似して丸メガネを掛けるようになったそうですよ。

偉大な芸術家には、「映画スターに憧れてファッションを真似する」という純粋な少年らしい一面があったのですね。

藤田嗣治がおしゃれになったのは渡仏後

おかっぱ頭、手作りのアイテムによって実現した独自のファッション、ロイドのような丸メガネ。

画家というよりも、ファッションデザイナーのように独特でおしゃれな雰囲気の男性でした。

藤田は1913年に渡仏後、モディリアーニのような個性を爆発させる芸術家たちに出会い、刺激を受けていきます。


そしてフランスで流行していた前衛的なキュービズムに影響され、独自の画風を確立していきました。

日本では確立できなかったであろう画風を手に入れた結果、芸術家として自信が付いたに違いありません。

ファッションがおしゃれになったのも、やはり渡仏後。

画家として胸を張って生きられるようになった結果、日本では「奇抜」と揶揄されそうなファッションを貫く勇気も手に入れたのでしょう。

藤田嗣治のアトリエは保存されている

藤田は晩年、日本ではなく、下積み時代を過ごしたフランスに戻って生涯を終えています。

アトリエを備えていた終の住処は、今も「メゾン・アトリエ・フジタ」として大切に保存されています。

オブジェはすべて、主の生前から動かされず保存されてきました。

アトリエはパリから高速に乗り1時間ほどのエッソンヌという地方にあります。

昔からユーゴーやドラクロワ、コクトーなどの芸術家に愛された場所です。


1960年の10月4日に家を買ったとき、藤田は74歳でした。

藤田は誰にも煩わされず、芸術活動に集中するため、最後の居場所としてこの村を選んだのでしょう。

周囲に流されず、独自のファッションと生き方を貫いた、稀有な画家だったのですね。

関連記事
藤田嗣治に子孫なし!5人の妻、家系図に木戸孝允。自由な性格で晩年はフランス

上田義彦、桐島かれんとの出会い。若い頃の活動。事務所、自宅、スタジオについて

四谷シモンの現在(2023)。結婚した妻&病気の噂はデマ。若い頃から人形制作に没頭

コメント