藤田嗣治に子孫なし!5人の妻、家系図に木戸孝允。自由な性格で晩年はフランス

第一次世界大戦の時期にフランスで活躍し、猫や女性をモチーフとした乳白色の絵画で知られた藤田嗣治(ふじた つぐはる)。

今回は藤田の子孫と5人の妻の情報を見ていきましょう。

また家系図に幕末の偉人がいるという情報、知られざる性格と晩年の様子にも迫ります。

藤田嗣治のプロフィール

洗礼名:レオナール・ツグハル・フジタ

本名:藤田嗣治

生年月日:1886年11月27日

死没:1968年1月29日

身長:160cm未満

出身地:東京市牛込区新小川町(現在の東京都新宿区)

最終学歴:東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)

藤田嗣治の子孫は藤田嗣隆、直系の子孫はいない

冒頭で触れた通り、藤田には合計5人の妻がいました。

色男だったことがうかがえますが、意外にも子供は1人ももうけませんでした。

晩年、積極的に子供の絵を描いていましたが、その理由は心の奥底で子供を欲しがっていたためかもしれません。

したがって、親戚の子孫は今も存命ではあるものの、直系の子孫はいないのです。

藤田の親戚筋の子孫として、積極的に証言しているのが、藤田の姪の長男・藤田嗣隆(ふじた つぐたか)さんです。


嗣隆さんは2020年に『レオナルド藤田嗣治 覚書 レオナール・フジタとの散歩』を出版し、偉大な先祖の活動を後世に伝え続けています。

藤田嗣治の妻は日本人とフランス人で5人

5人の妻のうち2人は日本人、3人はフランス人でした。

フランスと日本を行き来し、最終的にはフランスで生涯を終えた彼らしく、妻の国籍も時期によって異なるのです。

最初の結婚相手は女学校の美術教師・鴇田登美子(ときた とみこ)でした。

藤田は芸術の都パリへの留学を目指していましたが、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科での成績が悪く、官費での留学を断念。

日本で思い悩んでいた時期に登美子と大恋愛の末、1912年に結婚しました。

翌年、父親に学費を工面してもらい、念願のフランス留学を実現させます。

留学は3年間の予定でしたが、フランスでの生活を続けたくなった結果、留学期間は延長しました。


結果的に日本に残してきた妻との結婚生活は破綻してしまったのです。

離婚後、藤田はモデルとして活動していた、フェルナンド・バレエと出会い再婚しました。

現地人である彼女の協力もあり、シェロン画廊と契約を結ぶことに成功。初の個展も成功し、徐々に画家としての知名度を高めていきました。

1919年には6点の出品作品がすべて入選し、流行画家としてフランスで人気を獲得します。

しかし下積み時代の藤田を愛したフェルナンドは、売れっ子となった彼の考え方を好きになれなくなってしまいました。

考え方の不一致によって愛情がさめてしまった2人は、お互いに浮気をしたのち、離婚しています。

2度の離婚後も藤田は複数の女性と交際しています。3人目の妻は「お雪(ユキ)」と名づけたリュシー・バドゥです。

しかしユキが、シュールレアリスム詩人ロベール・デスノスと交際を始め、藤田も新しい恋人のマドレーヌ・ルクーと交際。

藤田は踊り子だったマドレーヌを伴侶とし、1931年に2人で南米旅行に出かけました。

2人が正式に結婚したかは不明ですが、事実上、彼女はこの時期における藤田の妻として認識されています。


旅費がなくなったため2年後に帰国すると、6年間、2人は日本のアトリエで生活しています。

この間、マドレーヌはシャンソン歌手としてデビューしています。

しかしホームシックを患ってしまった結果、フランスに一時帰国しました。

1936年にマドレーヌは再来日したものの、3か月後に麻薬の過剰摂取によって急死してしまいます。

すでに50歳を迎えていた藤田には、生活を支えてくれる妻が必要でした。

当時25歳、娘ほども年齢の離れた堀内君代と出会い結婚。

ようやく落ち着いた夫婦生活を送るようになり、結果的にこれが最後の結婚となりました。

藤田がフランスに移住した際は君代もついて行き、夫が81歳で亡くなるまで31年間、ともに暮らしています。

君代は2009年に98歳で亡くなりました。破天荒な藤田が平穏な生活を送れるよう支え続けた、よき妻だったに違いありません。

藤田嗣治の家系図に木戸孝允

藤田の父・藤田嗣章(ふじた つぐあきら)は、明治時代、陸軍軍医として勤務していました。

文豪で軍医だった森鴎外の後任として、最高位の総監にまでのぼりつめた人物です。

嗣章はエリート中のエリートであり、親戚には偉人も複数いることがわかっています。


傍系の子孫である嗣隆さんが『レオナルド藤田嗣治 覚書 レオナール・フジタとの散歩』を執筆中、家系図にある人物の名前を見つけました。

藤田の曾祖母の家系に、江戸時代の文人画家・春木南湖(はるき なんこ)がいたのです。

南湖は江戸時代の中~後期に山水画や花鳥画を描き活躍した人物。偉大な画家の先祖も、やはり有名な画家だったのですね。

また別の偉人の名前も、藤田の兄・藤田嗣雄(ふじた つぐお)の家系図から浮かび上がりました。

嗣雄は、日露戦争で満州軍総参謀長として活躍した児玉源太郎の娘モトと結婚しました。

モトの妹ツルは、太平洋戦争時の内大臣・木戸幸一に嫁いでいます。木戸幸一は幕末の英雄・木戸孝允(桂小五郎)の孫にあたります。

つまり藤田は血のつながりこそないものの、木戸孝允の親戚だったのです。有名人にふさわしい豪華絢爛たる家系図ですね。    

藤田嗣治の性格は自由奔放

エリートの多い家系に生まれた藤田ですが、幼少期から勉強よりも絵に熱中していたようです。

画家の黒田清輝から作風をけなされ、学校では美術の成績は中の下。

ふてくされた藤田は授業をサボって、吉原に通い始めました。女遊びを覚えた結果、5人もの妻と結婚するほどの色男になっていったのです。

やりたいことは我慢しない自由奔放な性格は晩年まで変わらなかったようですよ。

藤田嗣治は晩年にフランスで生活

藤田は太平洋戦争中、陸軍美術協会理事長を務め、戦意高揚のための戦争画を多く描きました。

結果的に敗戦後、GHQから聴取を受け、「戦争協力者」として扱われるようになります。

日本にいるのがつらくなった結果、63歳でフランスに戻り、6年後にフランス国籍を取得しました。

彼を「日本から追放されたかわいそうな画家」と考える人もいるかもしれません。


しかし晩年はフランスで創作に専念できたため、決して不遇ではなかったのでしょう。

81歳で亡くなる直前まで教会「フジタ礼拝堂」の設計に携わっていた藤田。

日本で浴びた批判の声から遠く離れ、情熱のほとばしるままに充実した日々を送っていたに違いありません。

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