明石昌夫の若い頃。アスペルガーが原因でB’zをクビ?松本孝弘との関係は?現在は大学教授

明石昌夫(あかしまさお)さんは日本の音楽プロデューサー。

1988年にビーイングと契約し、B’zのデビュー曲「だからその手を離して」でアレンジャーとしてデビュー。

数多くのB’zの名曲をアレンジしていましたが、次第に制作に携わらなくなり、ついには松本孝弘さんとの不仲説まで流れ始めました。

そんな明石昌夫さんの若い頃の活動や、松本孝弘さんとの関係について、お伝えします。

明石昌夫のプロフィール

本名:明石昌夫

生年月日:1957年(昭和32年)3月25日

出身地:兵庫県西宮市

最終学歴:大阪大学基礎工学部電気工学科

明石昌夫の若い頃について

2022年現在65歳の明石昌夫さんですが、若い頃はどんな音楽に触れてきたのでしょうか。

ビーイングに所属する以前と、ビーイング在籍期間の音楽遍歴を見ていきましょう。

4歳からバイオリンを習っていた

明石昌夫さんは4歳からバイオリンを習い始めました。

お父様が東大卒のエリートだったという話もあり、わりと裕福なご家庭だったのかもしれません。


また、音楽好きの一家だったこともあり、幼少の頃から音楽に触れることが多かったようです。

小学校に上がる前から「芸大に行きたい。芸大に行けなければ東大に行きたい。」と言っていたそうで、将来についてもビジョンのあるしっかりした子供だったそうです。

ですが、中学校になる頃にGSブームが到来し、そのブームに触発され、クラシックから洋楽ロックへと聴く音楽が変わりました。

中学生で初めてのバンドを結成し、その時すでにドラム、ギター、ベース、キーボードなどの一通りの楽器は弾けるようになっていたようです。

最終的にはベースが一番自分には向いていると気付き、ベーシストを志します。

その後、大学在学時にCHAGE and ASKAのツアードラマーなどで知られる菅沼孝三さんと知り合い、菅沼さんから演歌歌手のバックバンドの仕事などを紹介してもらいベーシストとして活動を始めました。

大学卒業する頃にはベーシストとして食べていけるようになっていたため、親の反対を押し切り、バンドマンとして生きて行くことを決意しました。

30歳まで大阪で活動していましたが、デモテープを制作し、そのデモテープがビーイングのプロデューサーである長戸大幸さんの耳に入り、ビーイング専属のアレンジャーとして契約することになりました。

ビーイングに所属していた1988年〜1998年まで

31歳からの10年間はビーイングに所属し、同事務所に所属しているアーティストの編曲を数多く手がけられていました。

特に「3人目のB’z」と呼ばれるほどB’zとの関わりは深く、1988年のデビュー曲から1994年リリースの7枚目のアルバム「The 7th Blues」まで、ほぼすべての曲の編曲に携わりました。


関わった曲数では100曲を優に超えています。

1997年までのB’zのライブにもマニピュレーターとベーシストとして参加し、B’zのサポートメンバーとしてステージに立った回数は、実に通算424公演にものぼります。

また、ビーイングのB’z以外のアーティストだと、ZARD、T-BOLAN、WANDSなどの編曲も手掛けました。

ビーイング系アーティストがヒットチャートを席巻していた1993年の年間オリコン編曲者ランキングでは、明石昌夫さん単独で2位、松本孝弘さんとの連名で3位、T-BOLANとの連名で5位にチャートインしていました。

B’zのツアー先で居酒屋に行くと、有線放送で流れる曲の半数は明石さんが編曲を手がけた楽曲だったそうです。

それぐらい当時のJ-Popヒットにおけるビーイングの占有率は高いものでした。

ビーイングを離脱した経緯

1995年以降B’zの制作現場を退き、AMG(AKASHI MASAO GROUP)というバンドなどをやっていましたが、商業的には成功していませんでした。

そんな中、昔の知り合いがソニーにいて、SIAM SHADEのプロデュースを打診されます。


ビーイング専属のアレンジャーでしたので、本来ならビーイング以外のバンドを手がける事は出来ない契約でしたが、その時はビーイング側からOKが出てSIAM SHADEのプロデュースをする事になりました。

そして、1997年に発売した「1/3の純情の感情が」約70万枚を売り上げるヒットを記録しました。

ですが、一度OKを出したビーイングの方針が変わり、やはり外部バンドのプロデュースはやめてくれと言われていまします。

そこで明石さんは悩み、41歳にしてビーイングを離脱し、フリーのプロデューサーになる事を決意しました。

アスペルガーが原因でB’z仕事からクビになった?

B’zの楽曲制作から外れることになった経緯については、1994年に発売されたB’zの15枚目のシングル「MOTEL」のレコーディングでアイデアが枯渇してしまったことが原因、と語っていました。

明石昌夫さんは100曲以上ものB’zの曲のアレンジをしています。

同じアーティストの楽曲に同じアイデアは二度と使えないという制約から、B’zの曲でできるアレンジをやりつくしてしまい、レコーディング作業で煮詰まってしまったそうです。

それを見たB’zの松本孝弘さんが限界を感じ、B’zの制作から明石昌夫さんを外したようです。

また、もう1つの原因として、明石昌夫さんが持っているアスペルガー症候群についてもご本人が言及しています。

明石昌夫さんはご自身がアスペルガー症候群であると公言し、他人の気持ちを汲み取ったりする事が非常に苦手だと仰っています。

松本さんは人間関係を大事にする性格だそうで、アスペルガーの症状が出ている明石さんの行動をよく思わない事が多かっただろうし、自分でもその自覚がある、と語っていました。

松本孝弘とは不仲?

明石昌夫さんと稲葉浩志さんは仲がいいが、松本孝弘さんとは犬猿の仲である、というのはB’zファンなら1度は聞いたことのある噂でしょう。

週刊誌に、明石さんが松本さんの女遊びの事を、あろう事か松本さんの奥さんに言ってしまって松本さんが怒ってしまった、という記事が掲載された事があります。

これが本当なら松本さんが怒るのは当然の事でしょう。


この噂が真実かどうかは明らかになっていませんが、ビーイングを退社した後の2000年に、B’zの29枚目のシングル「juice」のカップリング曲「UBU」に編曲で参加されています。

本当に不仲であればまた一緒に仕事をしよう、ともならないでしょう。

また、明石さんは松本さんが還暦を迎えた際におめでとうのツイートをしていたりもして、直接関わる事はありませんが、敬遠しているというわけでもなさそうです。

明石昌夫は現在何をしている?

明石昌夫さんは2022年現在、神奈川県にある足洗学園音楽大学で、ロック&ポップスコースで教授を務めておられます。

20代はベーシストとして、30代はアレンジャーとして、40代はプロデューサーとして、そして50代からは教授として、常に音楽に関わっている明石昌夫さん。

還暦を越えられた今は、次世代の音楽業界を担う若者を育てる事に注力してらっしゃいます。

さらにYoutubeチャンネルを開設し、これまでの音楽遍歴で学んだ事や、視聴者の知りたい裏話まで惜しみなく共有されています。

これからもどんな形であれ、日本のロック界を盛り上げてくれそうですね。


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