池波正太郎の子孫と死因の病。池波志乃とは関係。書斎に工夫&万年筆のこだわり

数々の傑作を残し、歴史小説の大家として知られる池波正太郎(いけなみ しょうたろう)さん。

その作品の素晴らしさは時を経た今でも全く色褪せる事はありません。

池波正太郎の子孫はどうしてる?

手掛けた小説が幾度となくドラマ化や漫画化されている池波正太郎(いけなみしょうたろう)さん。

代表作の「鬼平犯科帳」、「剣客商売」、「仕掛人・藤枝梅安」の三大シリーズは誰もが1度は目にした事があるでしょう。

小説家というイメージが強い池波正太郎さんですが、文筆家としてのキャリアをスタートした当初は劇作家でした。


幼少期に両親が離婚した事で経済的に苦しかったため、小学校卒業後に働き始めた池波正太郎さん。

戦前、戦中は様々な職を転々とし、戦後は東京都の職員となり下谷区役所勤務に。

ですが幼少期から映画や小説が好きだったため、何らかの形で携わりたいという思いがあったのでしょう。

職員として勤務する傍ら執筆した戯曲を読売新聞の演劇文化賞に応募すると見事に入選し上演が決定。

その翌年も同賞に応募しまたしても入選を果たします。

そして東京都職員として勤務しながら数多くの戯曲を手掛けるようになった池波正太郎さん。

1955年の「名寄岩」がきっかけで東京都職員を退職し専業作家に。

それ以降は座付作家と言われるほど新国劇に多くの戯曲を提供。

その時の経験があるからこそ、後に映像映えする小説を数多く書くことが出来たのでしょう。

また、食通・美食家としても有名な池波正太郎さん。

食事に関するエッセイも多く、小説に登場する料理を再現する番組が作られたことも。

満たされた私生活が素晴らしい作品を生み出せた秘訣かもしれませんね。

このようにパーソナルな情報は多い池波正太郎さん。

その一方でプライベートについては情報が殆どありません。

1950年に片岡豊子さんと結婚したという情報は見つかりました。

ですが、子供や子孫に関しては情報を見つける事が出来ませんでした。

もし池波正太郎さんに子供がいたとしたら一体何をしているのでしょう。

芸能界のように二世が少なくない文芸界。

吉本ばななさんや檀ふみさん、阿川佐和子さんが二世作家の代表的な存在ですね。

もし池波正太郎さんの子供が作家になっていれば話題になっているはず。

そのため池波正太郎さんの子供が文筆界にいない事は間違いないでしょう。

ただ、クリエイティブな職に就いている可能性が高いような気はします。

池波正太郎の死因

1990年5月3日に67歳という若さで亡くなった池波正太郎さん。

死因となったのは急性白血病でした。

池波正太郎さんの晩年は体調が思わしくなかったそうです。

ですが三大シリーズの連載に加え個展も開催するなど精力的に活動を続けていました。

ところが1990年3月に白血病で緊急入院するとそのまま同年5月に死去。

連載中だった「仕掛人・藤枝梅安 梅安冬時雨」と「鬼平犯科帳 誘拐」は未完のまま絶筆となりました。

食通としても知られる池波正太郎さんは好きな食事を楽しむために健康には人一倍気を使っていたはず。

ただ、白血病は現在の医学でもはっきりとした原因は分かっていません。

原因が分からないだけに予防する事も出来ません。

高齢者ほど死亡率が高まると言われる白血病。

池波正太郎さんが罹患したのは不運としか言いようがありません。

池波正太郎と池波志乃には関係がある?

妖艶さと品格を併せ持つ女優として数多くの作品に出演した池波志乃さん。

長年、女優業を休止していたため「中尾彬さんの妻」というイメージが強いかもしれません

池波志乃さんの家系は祖父が5代目 古今亭志ん生さんで父が10代目 金原亭馬生さんという落語一家。


物心が付く前から芸事が身近だった池波志乃さんが芸能界に興味を持ったのは必然と言えるでしょう。

池波志乃さんは高校を中退して俳優小劇場養成所に入所。

その後、新国劇に入団しています。

「池波志乃」の芸名を名乗り始めたのは新国劇の研究生だった頃。

名付け親は父である金原亭馬生さんで、新国劇の座付作家だった池波正太郎さんから「池波」を取り名付けたそうです。

もちろん池波正太郎さんに許可は貰っています。

なお、池波志乃さん一家と池波正太郎さんの縁はこれだけではありません。

池波正太郎さんの代表作であり何度となくドラマ化された「鬼平犯科帳」、

池波志乃さんの叔父、3代目 古今亭志ん朝さんもかつて同ドラマに出演。

その後、産まれた子供に自信が演じた役名「忠吾」と名付けているんです。

この事から池波志乃さんの父と叔父は池波正太郎さんの熱狂的なファンだったという事が分かります。

著名な落語家にも多大な影響を与えるなんてさすがは日本を代表する小説家ですよね。

池波正太郎の書斎に隠された工夫とは

2001年に開設された池波正太郎記念文庫。

池波正太郎さんの作品にまつわる資料の他、著書や自筆の原稿を展示。

復元された池波正太郎さんの書斎も見どころの一つとなっています。


自宅では殆どの時間を書斎と応接間で過ごしたという池波正太郎さん。

長い時間を過ごすだけあって色々な工夫が施されているようです。

机の上に置かれているは万年筆や文鎮、資料に赤鉛筆。

椅子に座ったまま手が届く距離に置かれた資料の入った本棚。

そして実際の書斎には奥にベッドまであったそうです。

そのため寝室ではなく書斎で寝る事も多かったんだとか。

超売れっ子作家だった池波正太郎さん。

常に疲れ切って倒れる直前まで小説を書いていたのかもしれません。

横になりたい時はすぐに寝られるように書斎にベッドを用意したのでしょう。

また、良いストーリーを思いついたらすぐに書けるようにという思いもあったのかもしれません。

池波正太郎さんの創作活動の一端を垣間見る事が出来る書斎。

ファンならずとも一見の価値はありそうです。

池波正太郎は万年筆にこだわっていた

最近はパソコンで原稿を作成する作家も多い事でしょう。

手書きに比べると文章の加除訂正が容易なので当然の流れと言えるかもしれません。

ただ、パソコンで書かれた原稿は味気なさを感じてしまいますよね。

その一方で池波正太郎さんが原稿を執筆する際に使っていたのは万年筆。

それも「万年筆は男の武器」と語るほど強いこだわりを持っていたんです。

万年筆にこだわるだけあって常に40〜50本の万年筆を所有。

それらを気分によって使い分けていたんだとか。

また、「万年筆にお金を使う事は立派なこと」とも語る池波正太郎さん。


特に好んでいたというのが高級ブランドとして知られる「モンブラン」ですが、特注品の万年筆も所有していたようです。

筆圧や書き方によって文字の太さや濃さが変わるなど扱いが難しい万年筆。

ただ、その時の作家の思いが最もダイレクトに伝わるのが万年筆と言えるのではないでしょうか。

そう考えると池波正太郎さんが万年筆を愛用した理由も分かる気がしますよね。

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