司馬遼太郎の息子、娘、二人の妻。離婚理由と再婚の経緯。死因とは

『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』などドラマ化された代表作も多い、直木賞作家の司馬遼太郎(しば りょうたろう)。

硬派な時代小説のイメージこそ強いですが、プライベートではどんな人物だったのでしょうか。

今回は司馬の家族を、息子、娘、妻をメインにご紹介し、再婚の情報と死因についてもまとめました。

司馬遼太郎のプロフィール

本名:福田定一

生年月日:1923年8月7日

死没:1996年2月12日

身長:不明

出身地:大阪府大阪市

最終学歴:大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科)

司馬遼太郎の息子、娘、二人の妻

まずは司馬の息子、娘、妻について順番に見ていきましょう。

息子ですが、1952年に誕生した長男がいることが明らかになっています。


長男の母親は司馬の最初の妻で、薬剤師の女性でした。

2年後に離婚しており、長男は司馬の両親に育てられることになります。

長男は八尾市で小学校教員となりましたが、司馬と前妻の子供ということで長らく存在を隠していたようです。

取材陣が現れても、財団に問い合わせるようにと伝えるだけで、父親についてはコメントしていません。

司馬は離婚後、両親に長男を預けたまま、自分は資金援助以外に親としての役割を果たしていなかったようです。

長男は9億円にも及ぶ父の遺産を相続したものの、父に対する愛情は感じておらず、あまり思い返したくない存在なのでしょう。

次に司馬の娘がいたかどうかですが、子供については先妻との息子のみが確認されており、娘はいないことがわかりました。

妻については、先妻の薬剤師の女性と54年に離婚後、生涯連れ添うことになる松見みどりと59年に再婚しています。

みどりは、司馬と同じく産経新聞の記者でした。

大阪樟蔭女子大学を卒業後、婦人欄を担当し、料理記事などを執筆していたそうです。

司馬と結婚後は退社し、生涯夫に尽くしています。

夫の死後は司馬遼太郎記念財団を設立して理事に就任、『司馬さんは夢の中』を書き上げて、夫の情報を積極的に発信しました。

2014年に心不全により85歳で亡くなっています。

司馬に尽くした人生だったと言えますね。

司馬遼太郎の再婚

では司馬の再婚について、詳しく見ていきましょう。

そもそも離婚の原因は、先妻が舅にいじめられていたからという情報があります。

その後は長男の親権も司馬が獲得しているため、先妻は不遇の前半生を送ったことになるのかもしれません。

先妻とは見合い結婚だったため、そこまで愛情が深くなかったのでしょう。

一方みどりとは職場恋愛で、司馬の方からプロポーズをしたということです。

大阪駅前で待ち合わせし、コーヒーを飲むというささやかなデートを重ねた末の結婚でした。

司馬はみどりがいないと拗ねることもあり、甘えん坊だったことがわかっています。

先妻からすると司馬が幸福に過ごしている姿を見るのは、複雑な心境だったに違いありません。


みどりは夫のために尽くした立派な妻として知られています。

しかし先妻と長男が、司馬の愛情を感じられぬまま長い歳月を過ごしたことを忘れてはいけないでしょう。

司馬遼太郎の死因

最後に司馬の死因について見ていきましょう。

1996年に死去した司馬ですが、死因は腹部大動脈瘤の破裂でした。

93年頃から腰に痛みを感じていたそうで、この時点で腹部大動脈瘤が生じていたのです。

死去した場所は国立大阪病院ですが、この場所は代表作『花神』の主人公・大村益次郎が死去した場所と偶然同じでした。

死後は未亡人のみどりの尽力で財団ができ、司馬遼太郎賞も設立され、その業績が語り継がれることになったのです。


今回は司馬遼太郎についてご紹介しました。

小説家としては偉業を成し遂げましたが、家庭人としては身勝手で、甘えん坊の一面もある人物だったのでしょう。

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