日本人ピアニストの代名詞として世界を舞台に活躍し、後進の育成・紹介にも情熱を注いだ中村紘子(なかむらひろこ)さん。
華やかな舞台裏で、来る日も来る日も練習に明け暮れるのがピアニストの日課ですから、自宅の防音設備に関心を寄せる人も多いのではないでしょうか。
今回は中村紘子さんの家族にも注目して、父親や母親、夫についてまとめます。
中村紘子の自宅マンション、グランドピアノのサイズは?
1960年、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会にて天才少女としてデビューした中村紘子さん。
生年月日は1944年7月25日、桐朋女子高校音楽科を中退後、アメリカのジュリアード音楽院で学びました。
56年間のピアノ人生で3800回を超える国内外の演奏会を行い、世界中の人々を魅了してきたピアニストです。
小柄な身体から奏でられる力強い旋律は、華やかな美貌のピアニストのイメージを一瞬忘れさせるものでした。
けれどもひとたびピアノから離れると、気さくな語り口や茶目っ気あふれる人柄がとてもチャーミング。
エッセイの名手でもあり、『N響アワー』の司会者を務めたりCMにも登場するなど、お茶の間にもおなじみの顔でしたね。
「クラシックの音楽家=芸術家肌で気難しそうな人」「クラシック=敷居の高いもの」といった先入観を覆し、クラシックを身近に感じさせた功績は何をおいても評価されるべきものでしょう。
リリースされた50を超えるアルバムは、クラシックとしてはいずれも桁外れのセールスを記録しています。
誕生日7月25日【NHK人x物x録 #中村紘子 1944~2016 ピアニスト】冷静にコントロールすると 卒のない演奏でつまらない 感情をこめていくと足元が危ない バランスが そのギリギリを狙っていく…続きは https://t.co/9PhBOYhuRC #NHK人物録 #今日は何の日 pic.twitter.com/GdUqYbYDGE
— NHKアーカイブス (@nhk_archives) July 24, 2018
2016年7月26日、大腸がんのため天国へ旅立った中村紘子さん。
72歳の誕生日を夫と自宅で祝った翌日でした。
音楽評論家で元『ショパン』編集長の伊熊よし子さんは、中村紘子さんのマンションに何度も取材に訪れたことのある人物。
自宅で執り行われた一周忌にも参加しています。
遺影に向き合った時、ふとご本人が現れそうな気がして、不思議な感慨にとらわれたと振り返っています。
『ショパン』には「ピアニストの部屋」という連載があり、1988年1月号では中村紘子さんの自宅を紹介。
自宅はもともと夫である庄司薫さんが住んでいたマンションで、そこへ紘子さんがピアノと猫を連れて移ってきたのだそう。
壁も天井も白く、眺望も抜群、リビングルームは25畳の広さ。
リビングの二か所に配置された応接セットの間にスタインウェイのC型がありました。
グランドピアノにもサイズがあり、いちばん大きいフルコンサート・ピアノはマンションのエレベーターに入らなかったそうです。
また、リビングルームの隣にもピアノの部屋があり、こちらにもスタインウェイのC型が。
この部屋は防音のために造りが二重になっていました。
部屋の中にもうひとつ部屋があり、二重扉の構造になるわけです。
床をはがし、コンクリートを打ち直してリフォームしたといいますから、ピアニストが自宅に手をかけるのはもはや仕事の一部なのかもしれません。
1988年の時点で住んでいたマンションと、一周忌が執り行われたマンションが同一であるかどうかは確認がとれませんでした。
<訃報>中村紘子さんが26日に亡くなりました。25日にハッピー・バースデイをしたばかりでした。合掌・・・。#中村紘子 #ピアノ pic.twitter.com/lTsz3oUfrD
— Mekata, Nobuo (@pinenb) July 28, 2016
中村紘子の父親・母親ほか家族と戸籍が「母の妹」の不思議
中村紘子さんは陸軍少佐・野村典夫さんと曜子さんの長女として山梨県甲州市で生まれ、東京都世田谷区で育ちました。
妹がいる4人家族だったようです。
ところが紘子さんが慶應義塾幼稚舎在学中に両親が離婚し、母親と暮らすことに。
夫婦仲に亀裂が入った原因は、母親が父親に内緒で紘子さんを自分の妹として入籍したことでした。
父親の典夫さんは、自分が戦死した時のことを考えたのだろうと説明しています。
中村紘子さんは出生名が「野村紘子」、母親の旧姓が「中村」、結婚後の本名が「福田紘子」です。
その後母親は印刷会社を興し、事業家の援助を受けながら、紘子さんにピアノを与え、一流のピアニストに育て上げていきます。
母・曜子さんは経営手腕にも長けた女性だったようで、のちに銀座の画廊・月光荘の経営に携わり、ソ連絵画を扱う美術商として成功。
一方でサロン・ド・クレールという会員制アートクラブを開き、女主人に。
このサロンには三島由紀夫さん、中曽根康弘さん、浅利慶太さんら政財界人や文化人が集いました。
母親は1992年に筋萎縮性側索硬化症のため死去。
父親の典夫さんは離婚後に再婚して子供をもうけ、1988年に肺炎で他界しています。
中村紘子と夫・庄司薫の馴れ初め
芥川賞作家の庄司薫さん、本名・福田章二さんと結婚したのは1974年9月でした。
芥川賞受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』に自分が登場することを知人に知らされた中村紘子さん。
まず感激してボーッとなり、つぎに作品の魅力に圧倒され、読み終えて著者の顔写真をまじまじと見つめた時に、自分はこの人と結婚すると直感したそうです。
電話をかけたのは中村紘子さんからでした。
#中村紘子 さん逝去。#庄司薫 が小説中で「中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について~優雅にショパンなどを弾きながら」と書いたのが、二人が結婚するキッカケになったという逸話が、同氏の小説を愛読していた僕には懐かしい。合掌。
— YATUーFーKOMA (@YATUKOMA) July 30, 2016
昨日、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の紹介をしましたが
日本の青春小説の傑作はこれだな。庄司薫:著
「赤ずきんちゃん気をつけて」
若いっていうのはすごく楽しくてワクワクするけど、
やっぱり傷つきやすい・・・#藤村正宏が好きな小説 #庄司薫https://t.co/0gg79FqQE3 pic.twitter.com/Lteay6vTle— 藤村正宏 (@exmascott) April 15, 2020
出会いから5年後、二人は結婚。
夫妻の間に子供はいません。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』の最後で、著者は主人公の男性に「ぼくは海のような男になろう」と言わせています。
愛する女性を守る決意の表れなのですが、これは庄司薫さん自身が未来の妻に伝えたい誓いの言葉だったのかもしれませんね。
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コメント
高1のとき誰かが黙って中村さんの音源を家においていき 10年後誰が黙ってショパンのピアノ曲集を2冊置いていき それから7年後曲を耳で覚えて軍隊ポロネーズとスケルツォと英雄ポロネーズを初見で最後まで弾きました 7歳からエレクトーン習っていましたピアノは15歳からです 習いに行ったのは一年間もありませんツェルニー ソナチネレベルです