河井継之助の子孫、妻が美人、家系図まとめ。家紋、陽明学との関わり

幕末の武士として知られる河井継之助(かわい つぎのすけ)。

長岡藩の家老として、民のために戊辰戦争で中立を守ろうとしたと言われています。

司馬遼太郎の代表作『峠』の主人公でもあり、2021年に本作が映画化されたため、河井の知名度も上がりました。

今回は河井の子孫は現在(2023)もいるのか、妻はどんな人物だったかについて調査し、家系図をまとめました。

さらに家紋について、加えて陽明学との関わりもご紹介していきます。

河井継之助のプロフィール

本名:河井継之助

生年月日:1827年1月27日

死没:1868年10月1日

身長:不明

出身地:新潟県長岡市

河井継之助の子孫と妻は?家系図まとめ

まずは河井の子孫がいるのか、また妻の情報を見ていき、家系図をまとめます。


河井の子孫として判明しているのが、祖先の書籍『子孫が語る河井継之助』の著者・根岸千代子さんです。

1932年に生まれ、長崎活水女子短期大学英文科を卒業後、三菱製鋼に勤めています。

31歳でアメリカに留学し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校でBAを取得しました。

現地で結婚し、以降はアメリカで暮らしています。

次に河井の妻は、すがという女性で、16歳のときに7歳上の河井と結婚しています。

当時としては背が高く、美人ということで評判が良かったそうです。

藩主の側近を務める梛野家の娘ですので、この結婚は河井の出世に大きく貢献したとされています。

寝食を忘れて写経に熱中するなど、変わり者だった河井を、あたたかく見守り支え続けたそうです。

戊辰戦争で河井が中立を守ろうとしたがゆえに、長岡藩は甚大な被害をこうむります。

河井は戦闘の傷が元で41歳の若さで亡くなっていますが、その墓石は彼の戦争責任を追及する人々により何度も倒されました。

すがと義父母は新政府軍に捕らえられ、高岡藩に移送されています。

その獄中で夫の死を知りますが、悲しみにも耐え抜きました。

その後はいわば戦争犯罪人の家族として、うかつに外出もできない日陰の人生を遺族は歩むことになります。

子供のいなかったすがは養子を迎え、1894年(明治27年)に61歳で亡くなりました。

激動の時代を懸命に生き抜いた、波乱万丈の人生ですね。

夫とは喧嘩もしたそうですが、いちばんの理解者として寄り添い、藩を率いるリーダーの妻の責任を果たしたのでしょう。

河井家の家紋は?

次に河井家の家紋を見ていきましょう。

河井家の家紋は丸の中に剣の片喰(カタバミ)があしらわれています。

河井家の家紋を調べていると、片喰の後ろに剣が描かれたものと、後ろには剣が描かれていないものの2種類が出てきます。

正しい家紋は後ろに剣が描かれたものです。

しかし河井自身は、剣が描かれていない「丸に片喰」の家紋を採用していたので、両方間違いではないようですね。

ややこしいですが、家紋に関心のある方は、調べてみると面白いかもしれません。

河井継之助と陽明学との関わり

最後に河井と陽明学との関係についてご紹介します。

河井は生涯を通して、陽明学の教えを守っていました。

陽明学とは、王陽明が確立した学問で、行動することで知識が完成することを意味する「知行合一」という教えで有名です。

自分の責務を行動で果たすことの重要性を説いた陽明学は、幕末の志士に熱く受け入れられ、吉田松陰や佐久間象山も信奉しています。

自分が正しいと信じるやり方を、とにかく実践することを重視した河井も、結果を恐れず何でも行動に移したのでしょう。

その行動は多くの犠牲者を出してしまいますが、正義を貫こうとしたことに変わりはありません。


彼の正義感は陽明学によって支えられ、そして最後の瞬間まで教えによって救われたのでしょう。

今回は河井継之助についてご紹介しました。

敗者に惹かれる日本人にとって、河井は魅力的な人物ですし、映画によって業績が再評価されるかもしれませんね。

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