吉田松陰の弟子が豪華。松下村塾の教育方針、師匠はだれ?思想について

幕末・明治に名を残した偉人たちの師として知られる吉田松陰(よしだしょういん)。

弟子の顔ぶれや、彼らを輩出した松下村塾の教育についてご紹介します。

ところで、松陰の師匠にあたる人物はいったい誰なのでしょうか。

塾生たちに受け継がれ、彼らを維新へと導いた思想にも注目します。

吉田松陰が育てた弟子と松下村塾

山口県萩市に塾舎が現存する松下村塾は、幕末に吉田松陰が主宰した私塾です。

移築ではなく、当時からこの場所に建っていました。

松陰がここで指導にあたったのは、安政の大獄で死罪となるまでの短い期間。


にもかかわらず同塾からは、のちに倒幕の志士として名をはせた人物や明治政府で要職に就いた人物が何人も生まれました。

なかでも著名な弟子は、久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、山田顕義ら。

また塾生以外に目を向けると、「維新三傑」の一人である桂小五郎(のちの木戸孝允)も藩校の明倫館で松陰に兵学を学んでいます。

久坂玄瑞は高杉晋作ともに「識の高杉、才の久坂」と呼ばれた塾の双璧の一人でした。

松陰の妹・文が嫁いでいるため、義弟でもあります。

松陰の死後、玄瑞は師の遺志を継ぐかのように長州藩の尊王攘夷運動の先陣に立つように。

かたや晋作は、士分でない者も受け入れた松下村塾と同じように、身分の格差を問わず志ある者を募った奇兵隊を率いました。

この二人のように明治維新を見ることなく、若くして死んだ弟子も多いですね。

一方の生き残り組は、伊藤博文や山縣有朋の内閣総理大臣をはじめ、国務大臣、大学創立者など新政府で重要な役割を担うことに。

弟子たちの活躍が「吉田松陰」「松下村塾」の名を全国に知らしめたといっても過言ではないでしょう。

門下生の人数は、およそ50名との説がありますが、残念ながら塾生名簿は現存せず。

注目したいのは、長州の松本村という限られた場所で、しかも短い期間で、多くの逸材が登場したということです。

いったい彼らはどんな教育を受けたのか、と不思議に思うのも無理はありませんね。

松下村塾での教育方針

松下村塾では一方的に講義するのではなく、弟子と意見をたたかわせ、一緒になって問題を考えることを重んじていた吉田松陰。

時には屋外で登山や農作業をしながら講釈することもありました。

教育方針の根底にあったのは、生徒が自らの目標を決めること。

つまり一人ひとりが志を立てることですね。

目標さえ定まれば、人はおのずと成長できると信じていた松陰。

また、どんな人間にも何かしらの長所や才能があるのだから、その良いところを伸ばし、些細な欠点には目をつぶるべきとも。

松陰は弟子の才能を発見するたびに文章にまとめて本人に渡していたそうです。

人間は意外に自分の長所は自覚しにくいもの。

塾生も大切にされている実感があったことでしょう。

このような弟子の個性を引き出す教育を物語る逸話があります。

松下村塾に通っていた利助という少年について、「なかなか周旋家になりそうだ」と記している松陰。

人と人の間に立って、つないでいく才能を見抜いたのでしょう。

この利助こそ、のちの伊藤博文です。

松下村塾で教えていた学問は孟子についての講義をはじめ、史学、兵学、経済、さらには芸術まで多岐にわたるもの。

松陰は、学んだことを行動に移すことが大切で、学問だけの人間になってはいけないと説きました。

弟子たちが維新を牽引できたのは、師から叩きこまれた行動力あってこそという見方が多いですね。

吉田松陰の師匠は誰?

そうそうたる門人を育てあげた教育者として有名な吉田松陰ですが、では松陰の師匠は誰だったのでしょうか。

幼くして養子入りした叔父・吉田大助の吉田家は、代々にわたり萩藩の山鹿流兵学師範を務める家系でした。

やがて養父が没して家督を継ぐと、叔父・玉木文之進による厳しい教育がはじまります。

吉田松陰がわずか9歳にして、兵学師範として藩校・明倫館に出仕することができたのは、文之進の徹底した教育によるところが大きいでしょう。

松陰の講義に感じ入った藩主・毛利敬親に師の名を訊ねられ、「玉木文之進」と答えた逸話も残っています。

その後、アヘン戦争で清がヨーロッパ列強に大敗。


松陰は山鹿流兵学がすでに時代遅れであることを知り、西洋兵学に目を向けることに。

以降は佐久間象山に蘭学や砲術を学んだほか、安積艮斎らにも師事。

佐久間象山は松代藩の兵学者・思想家ですが、江戸にでて五月塾を主宰しており、門下には松陰のほか勝海舟や坂本龍馬ら英才がいました。

嘉永7年(1854年)、松陰の密航未遂事件では象山もこの事件に連座し、入獄しています。

やや自信過剰なきらいがあり、それゆえ敵も多かったとされる佐久間象山。

けれども、当時において洋学の大家だったことはまぎれもない事実です。

吉田松陰の思想

吉田松陰は単なる教育者ではなく、活動家でもありました。

弟子には時代の先駆けとなって世の中を動かすことを期待し、自らも先頭に立っています。

政治的な思想は尊皇攘夷。

天下国家は天皇が支配し、天皇の下に万民は平等と説きました。

権威や権限は唯一の君主である天皇が持ち、国民は皇国の臣民であるという考え方です。

幕府や藩の権威を否定する考え方ですね。

松下村塾でも塾生は身分の隔てなく平等に扱われていました。

松陰は、国家的危機を打開するのは在野の志士と位置づけ、このような人々を「草莽(そうもう)」と呼んでいます。

思想としてよく紹介される「草莽崛起(そうもうくっき)」は、「在野の者よ、立ち上がれ」という意味。


松陰亡きあと、その思想は多くの志士たちに受け継がれ、やがて明治という新しい時代が拓かれていきます。

教育の力や、その影響力をあらためて思い知らされますね。

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