野口英世の功績。何をした人?死因は黄熱病。24歳で蛇毒の研究に成果

偉大な細菌学者として知られる野口英世(のぐち ひでよ)。

ただ実際にどんな功績を挙げた人なのか、わからない人も多いでしょう。

今回は野口の功績に関して、具体的に何をした人なのかご紹介します。

また死因の黄熱病、蛇毒の研究にも迫ります。

野口英世のプロフィール

幼名:野口清作(せいさく)

生年月日:1876年11月9日

死没:1928年5月21日

身長:153cm

出身地:福島県耶麻郡三ッ和村(現在の耶麻郡猪苗代町)

最終学歴:済生学舎(現在の日本医科大学)

野口英世の功績!何をした人?

まず野口の功績をご紹介し、何をした人なのかまとめます。

もっとも有名な功績は、「黄熱病の病原体」の発見です。

野口は驚異的な集中力と情熱で研究に取り組んだ結果、1918年にエクアドルで黄熱病の病原体を見つけました。

世界でトップニュースとして報じられ、野口の名は世界的に知られます。

ただし今では、黄熱病の実際の原因はウイルスだと判明しています。

しかし野口の研究があったお陰で、ウイルスの特定につながったと考えれば、やはり彼の功績は大きいでしょう。

彼の功績でさらに重要なのは、「梅毒の純粋培養」です。

1911年、非常に難しい梅毒の培養を成し遂げ、世界から称賛を浴びます。

2年後には、進行性麻痺を患った人の脳に梅毒を発見。

当時は梅毒が進行性麻痺の原因だとわかっていなかったため、彼の功績の中でもとくに重要といえます。

他にも、溶血性貧血を引き起こす「バルトネラ症」の病原体を突き止めました。

「バルトネラ症」は、世界の細菌学者が誰も原因を解明できなかったとされています。

野口は患者の血液とイボのサンプルを大量に集め、原因を特定したのです。

彼は細菌学者として世界的に知られ、3度もノーベル生理学・医学賞候補に選ばれています。

後年に業績を否定する見解も出てきましたが、少なくとも彼の研究が今日の医学に大きく貢献したことは確かでしょう。

外国の研究者から「日本人は睡眠をとらない」と揶揄されるほど、熱心に研究していた野口。

他を圧倒する研究意欲が、彼を偉大な細菌学者にのし上げたのでしょう。

野口英世の死因は黄熱病

野口はさまざまな病気の研究に取り組み、病原体を特定してきました。

しかしそんな彼自身も、黄熱病に感染してしまい、51歳の若さで亡くなるのです。

野口は1927年、黄熱病研究を目的にアフリカへ出張。

現在のガーナにあるアクラに到着し、病理学者ウイリアム・ヤング博士に貸してもらった施設で研究を開始します。

12月26日にはウエンチ村で、黄熱病とおぼしき疫病発生の報告を聞き、血液採取のため現地へ向かいました。

年明けには野口自身に黄熱病らしき症状が出て、入院しています。

この時の病気は「アメーバ赤痢」だったようで、1週間ほどで回復して研究を再開しました。

しかし5月に再び体調が悪化し、黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院へ入院。

黄熱病は1回罹患すれば免疫が続くはずなのに、再び罹患したことを、野口は不思議に思っていたそうです。

そして5月21日の昼、野口は病室で亡くなりました。

彼の死後にヤング博士が、彼の血液を猿に摂取した結果、黄熱病を発症したため死因が特定されたそうです。

そして8日後にはヤング博士も、黄熱病で亡くなりました。


野口の死因が黄熱病ではなく「梅毒だった」とする説もあります。

これはあくまでも、「野口が黄熱病研究に成果を挙げられないまま、自らも犠牲になった」という汚名をそそぐための説でしょう。

黄熱病を撲滅しようとして自分が命を落としてしまったのは、見方によっては彼の汚名になりかねません。

そのため「死因は梅毒」説が浮上した可能性が高いです。

野口の死因が黄熱病だったことはヤング博士の実験でも明らかなため、間違いないでしょう。

野口終焉の地であるアクラには、感染症研究の拠点「野口記念医学研究所」があります。

同研究所は今、新型コロナウイルス感染症の対策拠点として、重要な役割を果たしているそうです。

黄熱病について解明できないまま、志半ばで自身も犠牲となった野口。

しかし命がけで研究をつづけた彼の生涯は、今でも多くの研究者を励まし続けているのでしょう。

蛇毒の研究とは?

黄熱病や梅毒の研究で知られる野口ですが、彼の知名度を上げたのは、「蛇毒」の研究成果でした。

1900年(明治33年)、渡米した野口は、ペンシルベニア大学医学部で助手となります。

同大学で彼は、「蛇毒の研究」を課題として与えられたのです。

野口は蛇毒によって起こる溶血性変化について、猛烈な勢いで成果を論文にまとめました。

論文は指導教官だったサイラス・ミッチェルに称賛されます。

そして渡米の翌年、フィラデルフィアでミッチェルと共に研究成果を発表。

こうして野口は、わずか24歳にして、アメリカの医学界に名を残したのです。

野口を天才と呼ぶ人も多いですが、実際は猛烈な研究意欲のある、「努力の天才」だったのでしょう。

多くの業績を残しながら、志半ばで亡くなった野口。

しかし彼の研究成果と熱い生涯は、今まさに医療現場の最前線で戦う人たちに、希望の光を与えているのでしょう。


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