野口英世の妻は米国人、子供は養子。家族の支えと子孫、家系図まとめ

ハンディキャップを乗り越えて成功をおさめた立志伝中の人として、ぬきんでた知名度を誇る野口英世(のぐちひでよ)。

貧しい農家の少年から世界のドクター・ノグチへと昇りつめた陰には多くの人のバックアップがありました。

あまり表に出てこない妻をはじめ、子供や両親など家族についてまとめます。

家系図の子孫にはどんな人物がいるのでしょう。

野口英世のプロフィール

幼名:野口清作(せいさく)

生年月日:1876年11月9日

死没:1928年5月21日

身長:153cm

出身地:福島県耶麻郡三ッ和村(現在の耶麻郡猪苗代町)

最終学歴:済生学舎(現在の日本医科大学)

野口英世を支えたアメリカ人の妻

ほとんどの人が毎日のように肖像を目にしている野口英世。

子供向けの偉人伝でもおなじみの人物で、「偉人のエース格」といっても過言ではないでしょう。

じつは浪費家で放蕩好きという残念な一面もあるのですが、これは子供向けの伝記ではスルーされるのがお約束。


ともあれ、そのサクセスストーリーはやはり日本人好みといえそうです。

ノーベル賞候補にもなり、世界的な名声を得た野口英世ですが、意外にもあまり知られていないのが妻のこと。

夫人は野口・メリー・ダージスといい、同い年のアメリカ人女性でした。

二人は1911年(明治44年)4月10日、 ともに34歳で結婚。

メリー・ロレッタ・ダージスはペンシルベニア州出身で、父は炭鉱夫でした。

高校を出て故郷をあとにしたメリーと、ロックフェラー医学研究所で研究に打ち込む英世が出会ったのはニューヨーク。

同僚の研究者に「日本人はいつ寝るんだ?」と揶揄されるほど寝る間を惜しんで仕事に没頭していたという野口英世。

英世が細菌のサンプルを自宅に持ち帰っても、自宅で研究に熱中しても、メリーは大らかに受けとめて、とがめることはなかったそうです。

およそ新婚生活とはほど遠い毎日であったにもかかわらず、夫の研究に理解を示して支え続けたというメリー夫人。

1928年(昭和3年)、英世がアフリカで黄熱病により死去すると、メリーは夫の遺族年金でひっそりと余生を送ります。

英世の故郷の人々の依頼に応えて記念館に遺品を寄贈したほか、義姉イヌに仕送りも続けていました。

メリーは1947年12月31日、動脈血栓のため71歳で永眠。

ニューヨーク市のウッドローン墓地で夫婦仲良く眠りについています。

英世・メリー夫妻に子供は誕生していません。

野口家では長男の英世が医学の道を望んだことから、姉のイヌが婿養子を迎えて4男1女に恵まれました。

英世は、のちにイヌの長男・栄を養子にしています。

実子はおらず、血縁上は甥にあたる栄が子供ということになります。

野口英世を支えた家族

野口英世は1876年(明治9年)11月9日、福島県猪苗代町に父・佐代助と母・シカの長男として生まれ、清作と命名されました。

英世と改めたのは医師免許を取得したあとのことです。

父の佐代助は16歳で戊辰戦争を体験。

この世の地獄を目の当たりにしたことがこたえたのか、この頃から酒を飲むことを覚えたといいます。

野口英世の父というと、伝記では酒飲みの怠け者として描かれることが多い人物。

ですが、英世の恩師・小林栄の『博士の父』によると、さっぱりとした好人物で、息子の出世を自慢することもなかったとのこと。

故郷・小平潟には学問の神様を祀る天満宮があり、佐代助は毎月欠かさず参拝に訪れて息子の成功を祈っていました。

郵便局が開局されると、逓送人(郵便配達員)をまじめに務め上げています。

母・シカは、傾いた家運の再興を望む野口家の一人娘。

待望の男児である清作が囲炉裏に落ちてしまい、左手に大火傷を負ったことに深い悔恨の念を抱きます。

不自由な左手では農作業ができないことから、学問で身を立てるように諭したのは母でした。

読み書きができなかったシカは、お寺の住職に頼みこんで手習いを受けて産婆の免許を取得。


農作業のかたわら多くの出産に立ち会って、わが子の成長に望みをかけました。

野口英世には姉のイヌ、弟の清三という姉弟がいますが、シカは最初の子供である男児を死産しています。

翌年に生まれたイヌは双子であり、一人はまもなく死去。

その2年後に生まれたのが清作であり、11歳年下の弟が清三です。

「清三」という名前から、二人目の男児ではないことがなんとなくわかりますね。

イヌが野口家を継いだのは清作の夢を応援するためで、弟が上京や渡航する際はわずかながらも餞別を渡していました。

野口英世の没後、イヌは野口英世記念館の仕事に携わり、1963年(昭和38年)に90歳の大往生をとげています。

末っ子の清三は北海道に移住したのち、同じ会津出身の遠藤房吉の養子になり、その娘・サイと結婚。

国策の北海道開拓のさなかにあり、5人以上の家族には農地が与えられるということで、父の佐代助も北海道に移り住みます。

清三は1943年(昭和18年)、56歳でこの世を去りました。

野口英世の家系図の子孫たち

前述のとおり、野口英世には実子がいませんでした。

家系図のうえでは、養子であるイヌの長男・栄が子供ということになりますが、残念ながら、子の世代から先の情報は不明です。

栄の生年が1895年(明治28年)ということから、養子に迎えた1920年(大正9年)にはすでに成人していたことに。

野口家はイヌが養子を迎えて跡を継ぎ、栄の下に寅吉、英栄、英善という男児と、雪という女児が誕生。

一方、北海道に移住した清三は、一夫、清、綾子、正の3男1女をもうけました。

もちろん甥や姪とは血縁関係にありますが、彼らの子孫は英世の血を引く直系の子孫というわけではなく、姉弟の子孫ということになりますね。


医学の発展に生涯を捧げた野口英世は、常に彼を信じて支え、励ます人に囲まれていました。

幸せな研究者であったことはまちがいありません。

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