ハンディキャップを乗り越えて成功をおさめた立志伝中の人として、ぬきんでた知名度を誇る野口英世(のぐちひでよ)。
貧しい農家の少年から世界のドクター・ノグチへと昇りつめた陰には多くの人のバックアップがありました。
あまり表に出てこない妻をはじめ、子供や両親など家族についてまとめます。
家系図の子孫にはどんな人物がいるのでしょう。
野口英世のプロフィール
幼名:野口清作(せいさく)
生年月日:1876年11月9日
死没:1928年5月21日
身長:153cm
出身地:福島県耶麻郡三ッ和村(現在の耶麻郡猪苗代町)
最終学歴:済生学舎(現在の日本医科大学)
野口英世と妻・メリーの絆
日本の偉大な医学者として知られる野口英世の人生には、妻であるメリー・ロレッタ・ダージスの存在が欠かせません。
ここでは、メリーがどのような人物であり、二人の結婚生活がどのようなものであったかを詳しく見ていきましょう。
メリー・ロレッタ・ダージスの人物像と夫婦の絆
メリー・ロレッタ・ダージスは、1876年にアメリカのペンシルベニア州で生まれました。
彼女の父は炭鉱労働者で、アイルランド系移民の家庭で育ちました。
ニューヨークに移り住んだ後、メリーはレストランで働きながら生活をしていました。
野口英世とメリーは、ニューヨークのレストランで出会い、意気投合しました。
1911年に結婚し、二人は共に新しい生活を始めました。
メリーは、夫の仕事を理解し、支える重要な役割を果たしました。
メリーは非常に献身的な人物であり、夫の研究を支えるために多くの努力を惜しみませんでした。
彼女は家庭内でのサポートを通じて、野口英世が研究に集中できる環境を整えました。
メリーの支えがあったからこそ、野口英世は数々の業績を上げることができたと考えられます。
メリーは、夫が細菌の標本を自宅に持ち帰っても平気で受け入れるほど、理解のある妻でした。
彼女の寛容さと理解力が、野口英世の研究活動を支える大きな力となっていたことは間違いありません。
また、メリーは野口英世の研究に対する情熱を理解し、彼の夢や目標を共有していました。
野口英世がアフリカで黄熱病の研究に取り組んでいる間も、メリーは彼を支え続けました。
彼女は夫からの電報を受け取り、その度に彼の無事を祈っていたと言われています。
メリーの支えがあったからこそ、野口英世は困難な状況でも研究を続けることができたのです。
メリーと野口英世の間には子供はいませんでしたが、彼女は夫の家族を大切にしました。
特に、福島県に住む野口英世の義姉に対しては、遺産や遺族年金から仕送りを続けていました。
この行動からも、メリーが家族を大切にする人物であったことがうかがえます。
メリーは野口英世の死後も、彼の遺志を継ぎ、慎ましい生活を送りました。
彼女は1947年にニューヨークで亡くなり、夫と同じ墓地に埋葬されました。
メリーの人生は、夫を支えるために尽力した献身的な姿勢が色濃く反映されています。
彼女の存在があったからこそ、野口英世は世界的な医学者としての地位を築くことができたのです。
メリー・ロレッタ・ダージスは、野口英世の成功を陰で支えた重要な人物であり、その献身的な姿勢は多くの人々に感動を与えています。
彼女の生涯を通じて示された夫婦の絆は、今なお多くの人々に影響を与え続けています。
メリーの支えがあったからこそ、野口英世は困難な状況でも研究を続けることができたのです。
彼女の存在は、野口英世の人生と業績において欠かせないものであり、その影響は今なお色褪せることがありません。
メリー・ロレッタ・ダージスの献身的な姿勢と夫婦の絆は、後世に語り継がれるべき重要な物語です。
野口英世の子供と養子に関する真実
野口英世は、日本の医学界に大きな足跡を残した人物として知られていますが、彼の私生活、特に子供に関する話題はあまり知られていません。
ここでは、野口英世が実子を持たなかった理由や、養子との関係について詳しく見ていきましょう。
野口英世が選んだ養子と家族への思い
前述のとおり、野口英世とメリー・ロレッタ・ダージスの間には、実子がいませんでした。
この事実は、野口英世の人生や仕事に大きな影響を与えたと考えられます。
子供を持たなかった理由として、野口英世の仕事に対する献身的な姿勢が挙げられます。
彼は細菌学者として世界中を飛び回り、非常に多忙な日々を送っていました。
このような生活スタイルは、家庭を持ち子育てをすることと両立が難しかったと考えられます。
野口英世は、自身の研究に全てを捧げる覚悟を持っていたのかもしれません。
しかし、子供がいないことで、野口英世は自身の研究成果を直接的に次世代に引き継ぐことができないという課題に直面しました。
この問題を解決するため、野口英世は養子を迎える決断をしました。
彼が選んだのは、姉のイヌの長男である栄でした。
栄を養子に迎えたのは、野口英世が47歳の時のことでした。
この選択には、血縁のある親族を通じて自身の遺志を継ぐという意図があったと考えられます。
野口英世は、栄を自身の後継者として育てようとしたのかもしれません。
しかし、養子を迎えたからといって、野口英世の生活が大きく変わることはありませんでした。
彼は相変わらず研究に没頭し、世界中を飛び回る生活を続けました。
栄との関係は、どちらかというと遠距離のものだったと推測されます。
それでも、野口英世は栄の教育に関心を持ち、経済的な支援を惜しみませんでした。
彼は、栄が良い教育を受けられるよう配慮していたようです。
野口英世の養子に対する態度は、彼の家族観を反映しているとも言えるでしょう。
彼は、血縁にこだわらず、自身の遺志を継ぐ人物を育てることを選んだのです。
この選択は、野口英世の先見性と柔軟な考え方を示しているとも考えられます。
一方で、養子を迎えたにもかかわらず、野口英世が直接的な子育てに関わることは少なかったようです。
これは、彼の仕事に対する姿勢が変わらなかったことを示しています。
野口英世にとって、研究活動は人生の中心であり続けたのです。
しかし、養子を迎えたことで、野口英世の家族に対する思いが全くなかったわけではありません。
彼は、栄を通じて自身の遺産や知識を次世代に伝えようとしたのかもしれません。
野口英世の養子に対する態度は、彼の複雑な内面を反映しているように思われます。
研究に全てを捧げる一方で、自身の遺志を継ぐ存在を求めていたのではないでしょうか。
このような野口英世の選択は、当時の社会規範からすると珍しいものだったかもしれません。
しかし、彼の生き方は、仕事と家族のバランスを取ることの難しさを示す一例とも言えるでしょう。
野口英世の養子との関係は、彼の人生哲学や価値観を反映しているとも考えられます。
彼は個人の幸福よりも、人類全体の幸福に貢献することを選んだのかもしれません。
この選択は、科学者としての使命感と個人の生活のバランスを考える上で、重要な示唆を与えてくれます。
野口英世の子供に関する選択は、彼の人生と業績を理解する上で欠かせない要素です。
その影響は、現代の科学者たちの生き方にも及んでいると考えられます。
野口英世を支えた家族
野口英世は1876年(明治9年)11月9日、福島県猪苗代町に父・佐代助と母・シカの長男として生まれ、清作と命名されました。
英世と改めたのは医師免許を取得したあとのことです。
父の佐代助は16歳で戊辰戦争を体験。
この世の地獄を目の当たりにしたことがこたえたのか、この頃から酒を飲むことを覚えたといいます。
野口英世の父というと、伝記では酒飲みの怠け者として描かれることが多い人物。
ですが、英世の恩師・小林栄の『博士の父』によると、さっぱりとした好人物で、息子の出世を自慢することもなかったとのこと。
故郷・小平潟には学問の神様を祀る天満宮があり、佐代助は毎月欠かさず参拝に訪れて息子の成功を祈っていました。
郵便局が開局されると、逓送人(郵便配達員)をまじめに務め上げています。
母・シカは、傾いた家運の再興を望む野口家の一人娘。
待望の男児である清作が囲炉裏に落ちてしまい、左手に大火傷を負ったことに深い悔恨の念を抱きます。
不自由な左手では農作業ができないことから、学問で身を立てるように諭したのは母でした。
読み書きができなかったシカは、お寺の住職に頼みこんで手習いを受けて産婆の免許を取得。
農作業のかたわら多くの出産に立ち会って、わが子の成長に望みをかけました。
野口英世には姉のイヌ、弟の清三という姉弟がいますが、シカは最初の子供である男児を死産しています。
翌年に生まれたイヌは双子であり、一人はまもなく死去。
その2年後に生まれたのが清作であり、11歳年下の弟が清三です。
「清三」という名前から、二人目の男児ではないことがなんとなくわかりますね。
イヌが野口家を継いだのは清作の夢を応援するためで、弟が上京や渡航する際はわずかながらも餞別を渡していました。
野口英世の没後、イヌは野口英世記念館の仕事に携わり、1963年(昭和38年)に90歳の大往生をとげています。
今日は姉の日。野口英世の2つ違いの姉イヌさん。一緒にアケビを採ったり仲良し姉弟☺️記念館の開館当初は生家でお客様に弟・英世の事を話してたそうです。N #野口英世 #野口英世記念館 #会津若松 #観光 #地域共通クーポン #今日は何の日 #姉の日 #コロナ禍 #博物館 #コロナに負けるな #仲良し #家族 pic.twitter.com/z5TAepeoRz
— 野口英世記念館【公式】Hideyo Ngouchi Memorial Museum (@HideyoNoguchiMF) December 6, 2020
末っ子の清三は北海道に移住したのち、同じ会津出身の遠藤房吉の養子になり、その娘・サイと結婚。
国策の北海道開拓のさなかにあり、5人以上の家族には農地が与えられるということで、父の佐代助も北海道に移り住みます。
清三は1943年(昭和18年)、56歳でこの世を去りました。
野口英世の家系図の子孫たち
前述のとおり、野口英世には実子がいませんでした。
家系図のうえでは、養子であるイヌの長男・栄が子供ということになりますが、残念ながら、子の世代から先の情報は不明です。
栄の生年が1895年(明治28年)ということから、養子に迎えた1920年(大正9年)にはすでに成人していたことに。
野口家はイヌが養子を迎えて跡を継ぎ、栄の下に寅吉、英栄、英善という男児と、雪という女児が誕生。
一方、北海道に移住した清三は、一夫、清、綾子、正の3男1女をもうけました。
もちろん甥や姪とは血縁関係にありますが、彼らの子孫は英世の血を引く直系の子孫というわけではなく、姉弟の子孫ということになりますね。
医学の発展に生涯を捧げた野口英世は、常に彼を信じて支え、励ます人に囲まれていました。
幸せな研究者であったことはまちがいありません。
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