野口英世の左手。火傷の指、手術は寄付され医師へ。生い立ちと才能開花

黄熱病と梅毒の研究で功績を挙げた、細菌学者の野口英世(のぐち ひでよ)。

千円札の肖像としてもおなじみですね。

野口は幼少期に、左手を火傷して指がくっついたとされています。

今回は野口の左手について、火傷と指の状態、手術の詳細を確認しましょう。

併せて彼の生い立ちをまとめます。

野口英世のプロフィール

幼名:野口清作(せいさく)

生年月日:1876年11月9日

死没:1928年5月21日

身長:153cm

出身地:福島県耶麻郡三ッ和村(現在の耶麻郡猪苗代町)

最終学歴:済生学舎(現在の日本医科大学)

左手の火傷、指の状態は?

野口が左手に火傷を負った際の詳細を確認します。

1878年(明治11年)4月、当時1歳だった野口は、囲炉裏の傍に寝ていました。


母シカは彼を寝かしつけて、畑仕事へ出ており、周辺には大人がいなかったようです。

突然、彼の大きな泣き声が聞こえ、シカは慌てて家の中へ向かいます。

野口はその時、すでに囲炉裏の中へ落ちて、左手に大火傷を負っていたのです。

貧しい農家の野口一家は、赤ん坊を医者へ見せる余裕すらなく、彼の火傷を放置するしかありませんでした。

大火傷を自然治癒に任せた結果、後遺症は後々まで続きました。

火傷が治った後、全部の指がくっついてしまい、常にこぶしを握り締めている状態になったのです。

シカは自分の不注意で息子に火傷を負わせたことに責任を感じ、彼に農業をやらせず、学問の道へ進ませることにしました。

しかし野口は学校で、周囲の生徒から左手についてからかわれ、不登校になってしまいます。

ある日、学校へ行ったふりをして外をぶらぶらしていた彼を、シカが見つけます。

彼女は息子が学校へ行きたがらない理由を察し、「私のせいで火傷をさせてしまった」と詫びた上で、以下のように言いました。

「つらくてもここで勉強をやめたら、苦労が台無しだ。お前の勉強する姿を見たい」

母の言葉に野口は胸を打たれ、登校を再開し、猛勉強を始めます。

成績はトップクラスになりますが、指が動かない左手は相変わらず厄介な存在でした。

彼は高等小学校4年次に、作文「ぼくの左手」で自身の思いをつづります。

「たとえ左手が不自由でも、立派な人間になってみせる」と決意を表明。

同時に、「けれどいくら努力しても、無駄ではないかと考え、目の前が真っ暗になる。いっそ小刀で指を切り離したい」と書きました。

作文を読んだ恩師の小林栄先生をはじめ、周囲の教員や生徒も彼の気持ちに感銘を受けます。

そして野口のために、皆で寄付金を出し合い、手術代を集めたのです。

まるでドラマのように感動的なエピソードですね。

左手の手術と後遺症

周囲の協力によって、手術代が集まった結果、野口は左手を手術することになります。

執刀医はアメリカ帰りの渡部鼎医師で、見事に野口の指を切り離しました。

彼は手術のお陰で、ようやく左手でも物をつかめるようになったのです。

野口は医学技術に感動し、恩師である小林先生のすすめもあって、医師の道を志します。

手術を行った「会陽医院」で書生になり、医学に加え、ドイツ語や英語を勉強。

その後は上京して、医学試験の受験を目指します。

しかし、かろうじて物をつかめるだけだった左手では、実技試験を受けられませんでした。


そこで、東京での面倒を見てくれた血脇盛之助の援助により、2度目の手術を受けます。

血脇はのちに東京歯科大学を設立する、歯学界の大物です。

東京帝大で2度目の手術を受けたのち、野口は試験に合格。

ただし野口は左手の火傷跡を患者に見られたくなかったため、医師ではなく研究者の道に進みました。

野口という偉大な学者が誕生するには、周囲のあたたかい支援が不可欠だったといえますね。

野口英世の生い立ち

野口は幼名を清作(せいさく)といい、火傷さえなければ農家の長男として家を継ぐ予定でした。

しかし幼少期から非常に頭がよく、太陽の位置から時刻を計算できたそうです。

当時は尋常小学校4年間が一般的な教育制度で、富裕層の子供しか上級の高等小学校へ進学できませんでした。

しかし野口は秀才だったため、恩師の小林栄先生の後押しで猪苗代高等小学校へ進学しています。

野口は小林先生のような教師を目指し、勉強に励んでいました。

驚異的な集中力の持ち主だったようで、短期間で多くの知識を吸収。

左手の手術以降、医師を目指すようになってからも、1つの外国語の原書をたった3か月で読めるようになったそうです。

またいったん辞書を引いて覚えた言葉は、すべて覚えて、二度と同じ言葉を調べることはありませんでした。

幼少期から並外れた頭脳の持ち主だったのに加え、必死に勉強した結果、彼は偉大な細菌学者になり得たのでしょう。


ただし彼が偉業を成し遂げるには、母の言葉や恩師の援助が必要だったはず。

多くの人の好意と支援が、野口をお札の肖像になるほどの偉人にまで押し上げてくれたのでしょう。

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