北原白秋の破天荒エピソード。子孫と家系図がすごい。生家と生い立ちについて

『この道』や『からたちの花』など、日本人の心に染み入る童謡を残した詩人の北原白秋(きたはら はくしゅう)。

ただし穏やかな作品とは裏腹に、本人の性格は破天荒だったとされています。

今回は白秋の人柄がうかがえる有名エピソードに迫りましょう。

また子孫、家系図、生家と生い立ちについても確認します。

北原白秋のプロフィール

本名:北原隆吉(きたはら りゅうきち)

生年月日:1885年1月25日

死没:1942年11月2日

身長:不明

出身地:熊本県南関町、福岡県柳川市

最終学歴:早稲田大学英文科

北原白秋の破天荒エピソードと女癖

白秋は破天荒な性格で、当時としては一大スキャンダルを起こしたこともあります。

1910年(明治43年)、詩誌「屋上庭園」2号に掲載された詩『おかる勘平』が、官能的で風紀を乱すとされ発禁処分を受けます。


発禁処分で精神が乱れてしまったのか、白秋は人妻の松下俊子と恋に落ち、姦通罪によって逮捕されるのです。

弟たちの尽力で釈放されますが、詩人としての名声は地に堕ちてしまいます。

その後は俊子と正式に結婚するものの、彼女と白秋の両親の折り合いが悪く、わずか1年ほどで離婚。

詩人の江口章子と再婚しますが、彼女は雑誌記者と駆け落ちします。

最後の妻となった菊子は、時計屋の三女として生まれた秀才でした。

地味でつつましい人柄だったため、ようやく白秋も理想の伴侶として彼女を愛し、最後まで平穏に暮らしたそうです。

白秋は女癖の悪かった石川啄木に影響されたため、女性遍歴が多かったとされています。

穏やかな作風からは想像できないほど、破天荒でだらしのない人物だったといえそうです。

北原白秋の子孫

白秋には息子と娘が1人ずついました。

長男の北原隆太郎は、1922年生まれの禅哲学者です。

1944年、京都帝国大学の哲学科に在学中、中国戦線に従軍。

戦地で病気を患い、同年8月には帰還し、終戦後に復学しました。

久松真一博士に師事し禅哲学を学び、『覚の参究 世界禅を生きる』や『久松真一の宗教と思想』などの著作を発表。

さらに『白秋全集』全40巻の刊行に携わり、2004年に呼吸不全で亡くなるまで、父の遺稿の発刊に尽力しました。

白秋の長女は、1926年生まれの岩崎篁子(こうこ)で、ドイツ語学者岩崎英二郎の妻となります。

英二郎は三菱財閥の創業者一家である岩崎家の血筋です。

2人の長男で、白秋の孫にあたる岩崎透さんは、東山農場の社長となります。

また英二郎の次男岩崎純さんは、栃木ニコンの社長を経て、ニコンの特別嘱託に就任しました。

白秋の子孫は、文学やビジネスの世界で重要な役割を果たしてきたことがわかりましたね。

家系図に文学者や実業家

北原家で白秋以外に名を残しているのが、彼の弟である北原鉄雄(きたはら てつお)。

写真や文学を専門とした出版社「アルス」を設立し、代表となりました。

小唄研究家である湯朝竹山人が、『小唄選』をアルスの前身「阿蘭陀書房」で出版すると大ヒット。

その縁もあって、鉄雄は竹山人が死ぬまで生活費を援助し続けたとされています。

また白秋の長男隆太郎の妻北原東代(きたはら はるよ)さんは、京都大学大学院で文学を学び、博士課程を修了した文学者です。

『沈黙する白秋』や『立ちあがる白秋』など白秋関連の著作を多数執筆しています。

白秋の長女である篁子の夫は、先述の通り岩崎財閥の御曹司岩崎英二郎。

彼の父で実業家の岩崎輝弥は、吉屋信子の小説『安宅家の人々』の舞台のモデル「子安農園」を経営した人物です。

文学者や実業家が入り混じる、個性豊かな家系図といえますね。

北原白秋の生家


白秋の生家は福岡県柳川市にあります。

北原家は江戸時代から栄えていた商家で、「油屋」や「古問屋」と称し、海産物問屋を営んでいました。

白秋の父長太郎の代には酒造業として繁栄していましたが、1901年(明治34年)の大火で酒蔵を焼失してしまいます。

家は1969年に復元され、「北原白秋生家」として一般公開。

母屋と穀倉は白秋が生まれた当時のものが現存しており、当時の雰囲気を感じることができるでしょう。

立派な造り酒屋に見える生家は、今では白秋の愛用品や著作、デスマスクが展示され文学館として親しまれています。

北原白秋の生い立ち

裕福な商家に生まれた白秋。

1887年(明治20年)、2歳でチフスに感染し一命をとりとめたものの、乳母のシカがチフスで亡くなってしまいます。

この出来事があったため、シカは白秋にとって忘れ難い存在となったようです。

1891年(明治24年)、矢留尋常小学校に入学し、塾で習字を習い始めました。

幼少期から成績は優秀で、県立伝習館中学(現在の福岡県立伝習館高等学校)に入学後は2番の成績を修めます。

しかし数学が苦手だったため落第。

同時期から詩歌に傾倒し、雑誌「文庫」や「明星」を濫読。

16歳の時に実家の酒蔵が全焼し、家業が傾きますが、彼は変わらず文学に熱中し続けました。

同人誌に「白秋」名義で詩を掲載し、19歳で早稲田大学英文科予科に進学。

「射水(しゃすい)」の号を使い、若山牧水、中林蘇水と共に「早稲田の三水」と称されました。

幼少期から理数科目が苦手だったため、文学の道をひたすら突き進んだのは必然といえるでしょう。


破天荒な性格で、好きな道をとことん極めた白秋。

純粋で情熱的だったからこそ、迷うことなく一途に作品の創作を続けられたのでしょう。

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