わずか26歳で世を去った歌人、詩人の石川啄木(いしかわ たくぼく)。
短い生涯でしたが、今でも子孫はいるのでしょうか。
今回は啄木の子孫、子供、ひ孫、母について確認し、家系図をまとめます。
石川啄木のプロフィール
本名:石川一(いしかわ はじめ)
生年月日:1886年2月20日
死没:1912年4月13日
身長:約158cm
出身地:岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市日戸)
最終学歴:正則英語学校(正則学園高等学校)
石川啄木の子孫。子供も若くして逝去
まず啄木の子孫を確認します。
今日は、歌人、詩人の石川啄木氏です。
代用教員や新聞記者、新聞社の校正係に務める傍ら、歌集「一握の砂」を刊行しました。1首を3行書きにしたことや編集の巧みさが評価され、歌人として確固たる地位を築き、近代短歌の新領域をひらきました。#朝活書写 #石川啄木 #みんなで楽しむTwitter展覧会 pic.twitter.com/06YSZhjCc9— ギガマック (@gigamakk) December 23, 2020
啄木には2人の娘がいました。
真一という長男もいましたが、夭折しています。
啄木は26歳の時、肺結核により死去。
1年後には、妻の節子も後を追うように亡くなります。
相次いで両親を亡くした娘のうち、長女の京子は7歳、啄木の死後に生まれた次女の房江は1歳にもなっていませんでした。
そのため娘たちは、函館にいた節子の両親によって育てられます。
京子は遺愛女学校へ進学し、学園祭で出会った「北海タイムス」の記者、須見正雄と恋に落ちました。
そして卒業まで待たずに結婚します。
啄木の娘らしく文才のあった京子。
父から、ロシアの女性革命家にちなんで「ソニア」と呼ばれていた彼女は、「ソニア」をペンネームに文筆活動をしていました。
文才に恵まれた彼女が、文筆業の記者に惹かれたのは当然でしょう。
結婚後に京子は、長女の晴子と長男の玲児を産みました。
しかし彼女は1930年、急性肺炎にかかり亡くなります。
父よりもさらに若い24歳でした。
さらに妹の房江も、肺結核により19歳という若さで亡くなるのです。
非常に短命な家系だったことが惜しまれますね。
石川啄木のひ孫
啄木の孫は、娘の京子が生んだ晴子と玲児です。
そしてひ孫は、玲児の長女である晶子さんと、長男の真一さんでした。
晶子さんは与謝野晶子が名前の由来で、真一さんは夭折した啄木の長男にちなんで命名されました。
2019年、啄木が生まれた岩手県盛岡市と、生涯を終えた東京都文京区が友好都市となります。
友好関係となった記念に、盛岡駅前にある「滝の広場」に記念碑が建立されました。
記念碑を揮毫(きごう)したのが、啄木のひ孫である真一さんです。
2019年3月3日。
2ヶ月ぶりに岩手県盛岡市に帰省した。3月の岩手はまだ暖かくはないが、そこまで寒くもなかった。
盛岡駅前を歩いていたら、盛岡市と文京区が友好都市提携を始めたことを知った。何でも盛岡市出身の歌人・石川啄木が文京区で最期を迎えたことに起因するらしい。 pic.twitter.com/dYUyx6Q17z— 緑の風 (@Green_Wind_84) March 3, 2019
20日石川啄木生誕の地盛岡市と終焉の地文京区の友好都市調印式で、盛岡に。
啄木が代用教員をした渋民小学校は教室や教員室が明治時代にタイムスリップしたよう。
調印には啄木の末裔石川真一氏が立ち会い、啄木を支えた金田一京助の孫の秀穂氏が記念講演。演題は「京助と啄木、贈与とグリット」。 pic.twitter.com/cz2iNeuc1O
— こうだ久美子 (@kouda_kumiko) February 22, 2019
時を超えて、遠く離れた盛岡市と文京区が、石川家によって結びついたといえますね。
石川啄木の母「カツ」
啄木の母は、カツという女性でした。
啄木の有名な歌に、「戯れに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩歩まず」があります。
年老いた母を背負ったところ、あまりの軽さに驚き涙する情景は、胸を打ちますね。
母の老いを感じて悲しいにくれる瞬間を、見事に切り取った作品です。
しかし啄木は決して、母親思いの孝行息子ではありませんでした。
啄木が母に、「まんじゅうが食べたい」と言って作らせたことがあるそうです。
母ができたまんじゅうを持っていくと、「待っていたら、食欲が失せた」と彼女へまんじゅうをぶつけました。
このようなエピソードが語られるほど、啄木はわがまま放題だったそうです。
彼の妹ミツは、「短歌のように、母を背負うなんて嘘」と兄の人柄について語っています。
石川啄木の短歌に『たはむれに母を背負ひて、そのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず』が。後に身内が「啄木はそんな親思いの子ではなかった」と暴露を。これは第三者が知る必要のない家庭事情かな。が、親が他界した後で美化する子供って結構に多い。その殆どが自分を正当化せんと立場がない人間。 #偽善 pic.twitter.com/8eC10Xf5F8
— 天徳山 金剛寺 (@kongouji093) April 21, 2018
有名な歌から、母を気遣っていたイメージのある啄木ですが、作品からうかがえるほどの人格者ではなかったのでしょう。
石川啄木の家系図まとめ
啄木の家系図には、非常に短命な人が多いとわかりました。
ただ父親である石川一禎(いってい)は、76歳まで生きています。
曹洞宗の寺院「常光寺」の住職だった一禎。
妻のカツは、一禎にとって宗門の師匠だった葛原対月の妹でした。
夫婦は啄木のほか、彼の姉にあたるサタとトラ、妹にあたるミツの三女をもうけています。
一禎は1904年、宗費滞納で罷免されてしまい、一家は離散。
結果的に一禎は、娘であるトラ夫婦の家に身を寄せました。
トラの夫だった山本千三郎は転勤が多い鉄道官吏で、一禎も全国を転々としています。
そして高知駅付近の所長官舎で亡くなりました。
また啄木の妹ミツは、寺院住職の娘でありながらキリストの教えに感化され、北海道へ渡り小樽の教会で受洗。
司祭だった三浦清一と共に、敬虔なクリスチャンとして80年の生涯を全うしています。
啄木の家系図には、個性豊かな人々がたくさんいることがわかりました。
彼自身は早世したにもかかわらず、DNAを継いだ人々は、今でも各地で活躍しているのでしょう。
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コメント
でも本人の意思に反して函館に墓が建てられて、そのままです。