岩手県の盛岡市で生まれた、歌人で詩人の石川啄木(いしかわ たくぼく)。
作品は『一握の砂』や『悲しき玩具』などが有名ですが、啄木自身はどのような生涯を送ったのでしょう。
今回は啄木の生涯、生い立ち、生家のある岩手盛岡、函館とのゆかりを見ていきます。
石川啄木のプロフィール
本名:石川一(いしかわ はじめ)
生年月日:1886年2月20日
死没:1912年4月13日
身長:約158cm
出身地:岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市日戸)
最終学歴:正則英語学校(正則学園高等学校)
石川啄木の生涯
啄木の生涯を見ていきます。
彼は16歳にして文学の道を志し、地元の盛岡から上京しました。
あ、盛岡います石川啄木が好きです pic.twitter.com/CnR5We8UWW
— 🍑ももせ🍑 (@momose_emily) March 15, 2021
しかし情熱と若さで勝負しても、そう簡単には文学で身を立てられず、半年で帰郷。
それでも諦めなかった彼は、19歳で処女詩集『あこがれ』を発表します。
「天才詩人」と称賛されたものの、同時期に父が失業。
自身も結婚して家庭を持ったため、詩を創作する余裕はなくなりました。
20歳の時から、尋常高等小学校の代用教員として勤務。
石川啄木が渋民尋常高等小学校で代用教員をしていた話。写真は啄木記念館にある啄木像です。 pic.twitter.com/qobucDgLAX
— 玉 山蔵 (@iwate_daisuki) May 30, 2017
その後は北海道へ移り、新天地で商工会議所や新聞社で務めます。
22歳の時、中学時代からの親友だった金田一京助を頼り、再び上京。
24歳で『一握の砂』を発表し、ようやく原稿料を手に入れ、プロの歌人・詩人となりました。
しかしわずか1年後に腹膜炎で入院し、26歳で結核により亡くなるのです。
念願のプロ文学者として出発した矢先の不幸でした。
早世の天才と呼ばれる啄木ですが、デビューまでの道のりは波乱万丈だったのです。
志半ばで道を絶たれたことは、自身も悔しかったに違いありません。
せめてもう少し長生きして、多くの作品を発表して欲しかったですね。
石川啄木の生い立ち
啄木は幼少期から、きちんと読み書きを勉強していたようで、かなりの秀才でした。
通常より1学年早く、5歳で尋常小学校へ進学し、首席で卒業します。
盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)に入ると、4歳上の先輩だった金田一京助と親友になりました。
啄木は金田一の影響で、文学雑誌『明星』を読み、与謝野晶子の短歌に傾倒。
さらにのちの妻・堀合節子との恋愛も始まりました。
こうして文学と恋への情熱で学業がおろそかになり、カンニングや欠席をするようになるのです。
かつての優等生とは思えない行動ですが、「文学で身を立てる」と決めた啄木は、もはや学問を不要と考えていたのでしょう。
1902年、ついに中学校を退学。
退学後は16歳で上京し、愛読していた『明星』の出版元「新詩社」へ出向き、与謝野晶子夫婦とのコネをつかむのです。
幼少期は勉強に専念し、思春期は文学にのめり込んだことから、好きなことに一直線だった啄木の性格がうかがえます。
生家は岩手盛岡
啄木の生家は、岩手県盛岡市の常光寺です。
父の石川一禎(いってい)が住職を務めていた寺院でした。
岩手県、玉山郵便局。常光寺。石川啄木生誕の寺です。#風景印 pic.twitter.com/8xh7MBAlXL
— 日 高 (@hidaka16) January 23, 2019
また啄木の妻である節子の生家も、文学ファンにとって聖地になっています。
今日久々に学校行く用事があったからついでに散歩してきました🌱
↓学内にある石川啄木の妻・節子の生家の井戸🌱
石川啄木関係がそこらにあるの凄いわ🌱#啄木鳥探偵處#盛岡 pic.twitter.com/FpvZMK7mu0— ふかほり (@miku_mitsuhide) June 29, 2020
アザリアが恋しくてまた来てしまった…盛岡高等農林学校。自然観察園や自啓寮跡など、本館周辺も重要なスポットであふれています。
岩手大学の植物園は、石川啄木の妻、節子の生家があった場所だそうで、今でも井戸が残っています😊💫繋がりを感じますね
この後岩手県立博物館もハシゴして来ました🙌🏻 pic.twitter.com/yS5LwsSv1J— とん (@tontonton_malu) March 10, 2018
節子の生家は、今の岩手大学農学部が所有する植物園の一角にあるそうです。
古井戸と共に保存されており、観光スポットとして注目されています。
岩手県盛岡市を気軽に散策するだけで、何らかの啄木関連スポットに巡り合えるでしょう。
石川啄木と函館とのゆかり
啄木は友人への手紙で、「函館で死にたい」と書き送っています。
しかし彼の理想は実現しませんでした。
お気に入りの土地だった函館に生涯で滞在した日数は、わずか132日間だったそうです。
1907年、函館の文芸結社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」から原稿依頼が入ったことで函館に移り住んだ啄木。
啄木は結社の仲間と文学や恋の話を楽しみ、人生の中でもっとも幸福な時間を過ごしたそうです。
代用教員や新聞記者としても活動していましたが、同年8月25日の「函館大火」で職場が全焼。
わずか132日間の楽しい生活は終わり、以降は小樽に移ったのち、文筆で身を立てるため上京するのです。
今の函館では、「啄木小公園」や「函館市文学館」など、啄木の息吹を感じられるスポットが観光客を楽しませています。
(´-`).。oO
素晴らしい秋晴れ!
函館石川啄木小公園
海がキラキラしてました
(*´ω`*)啄木さんは何を思うぞ
そろそろ せたなへ帰るかのぅ〜(*´ω`*)#函館山#石川啄木#秋晴れ pic.twitter.com/jOePxbDEh6
— ゆここ (@YucchiUkurere) September 17, 2018
東京でプロの文筆家デビューした啄木。
しかし彼は生涯、函館の幸福時代に思いを馳せ、いずれは函館に戻りたいと望んでいたのでしょう。
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