石川啄木の生涯。秀才の生い立ち、生家は岩手盛岡。函館とのゆかり

岩手県の盛岡市で生まれた、歌人で詩人の石川啄木(いしかわ たくぼく)。

作品は『一握の砂』や『悲しき玩具』などが有名ですが、啄木自身はどのような生涯を送ったのでしょう。

今回は啄木の生涯、生い立ち、生家のある岩手盛岡、函館とのゆかりを見ていきます。

石川啄木のプロフィール


本名:石川一(いしかわ はじめ)

生年月日:1886年2月20日

死没:1912年4月13日

身長:約158cm

出身地:岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市日戸)

最終学歴:正則英語学校(正則学園高等学校)

石川啄木の生涯

啄木の生涯を見ていきます。

彼は16歳にして文学の道を志し、地元の盛岡から上京しました。

しかし情熱と若さで勝負しても、そう簡単には文学で身を立てられず、半年で帰郷。

それでも諦めなかった彼は、19歳で処女詩集『あこがれ』を発表します。

「天才詩人」と称賛されたものの、同時期に父が失業。

自身も結婚して家庭を持ったため、詩を創作する余裕はなくなりました。

20歳の時から、尋常高等小学校の代用教員として勤務。

その後は北海道へ移り、新天地で商工会議所や新聞社で務めます。

22歳の時、中学時代からの親友だった金田一京助を頼り、再び上京。

24歳で『一握の砂』を発表し、ようやく原稿料を手に入れ、プロの歌人・詩人となりました。

しかしわずか1年後に腹膜炎で入院し、26歳で結核により亡くなるのです。

念願のプロ文学者として出発した矢先の不幸でした。

早世の天才と呼ばれる啄木ですが、デビューまでの道のりは波乱万丈だったのです。

志半ばで道を絶たれたことは、自身も悔しかったに違いありません。

せめてもう少し長生きして、多くの作品を発表して欲しかったですね。

石川啄木の生い立ち

啄木は幼少期から、きちんと読み書きを勉強していたようで、かなりの秀才でした。

通常より1学年早く、5歳で尋常小学校へ進学し、首席で卒業します。

盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)に入ると、4歳上の先輩だった金田一京助と親友になりました。

啄木は金田一の影響で、文学雑誌『明星』を読み、与謝野晶子の短歌に傾倒。

さらにのちの妻・堀合節子との恋愛も始まりました。

こうして文学と恋への情熱で学業がおろそかになり、カンニングや欠席をするようになるのです。

かつての優等生とは思えない行動ですが、「文学で身を立てる」と決めた啄木は、もはや学問を不要と考えていたのでしょう。

1902年、ついに中学校を退学。

退学後は16歳で上京し、愛読していた『明星』の出版元「新詩社」へ出向き、与謝野晶子夫婦とのコネをつかむのです。

幼少期は勉強に専念し、思春期は文学にのめり込んだことから、好きなことに一直線だった啄木の性格がうかがえます。

生家は岩手盛岡

啄木の生家は、岩手県盛岡市の常光寺です。

父の石川一禎(いってい)が住職を務めていた寺院でした。

また啄木の妻である節子の生家も、文学ファンにとって聖地になっています。

節子の生家は、今の岩手大学農学部が所有する植物園の一角にあるそうです。

古井戸と共に保存されており、観光スポットとして注目されています。

岩手県盛岡市を気軽に散策するだけで、何らかの啄木関連スポットに巡り合えるでしょう。

石川啄木と函館とのゆかり

啄木は友人への手紙で、「函館で死にたい」と書き送っています。

しかし彼の理想は実現しませんでした。

お気に入りの土地だった函館に生涯で滞在した日数は、わずか132日間だったそうです。

1907年、函館の文芸結社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」から原稿依頼が入ったことで函館に移り住んだ啄木。

啄木は結社の仲間と文学や恋の話を楽しみ、人生の中でもっとも幸福な時間を過ごしたそうです。

代用教員や新聞記者としても活動していましたが、同年8月25日の「函館大火」で職場が全焼。

わずか132日間の楽しい生活は終わり、以降は小樽に移ったのち、文筆で身を立てるため上京するのです。

今の函館では、「啄木小公園」や「函館市文学館」など、啄木の息吹を感じられるスポットが観光客を楽しませています。

東京でプロの文筆家デビューした啄木。

しかし彼は生涯、函館の幸福時代に思いを馳せ、いずれは函館に戻りたいと望んでいたのでしょう。


石川啄木の子孫。子供も短命、ひ孫が記念碑。母には親不孝?家系図まとめ

正岡子規の病気、死因は結核?最期と生涯とは。家「子規庵」で死去

島崎藤村、暗い性格と家。フランスへの憧れ、芥川龍之介と不仲の謎と自然主義

寺田寅彦の子孫と子供。コーヒーと線香花火の随筆、関東大震災との関わり

男性作家
アスネタ – 芸能ニュースメディア

コメント