高村光太郎の父は彫刻家。戦争責任と生涯。留学体験、岩手での隠遁生活

彫刻家であると同時に、『道程』や『智恵子抄』を発表した詩人の高村光太郎(たかむら こうたろう)。

彼の父もまた、著名な彫刻家でした。

今回は光太郎の父・高村光雲についてご紹介します。

また光太郎の戦争責任、生涯を確認し、留学体験と岩手での隠遁生活について見ていきます。

高村光太郎のプロフィール

本名:高村光太郎(たかむら みつたろう)

生年月日:1883年3月13日

死没:1956年4月2日

身長:177cm

出身地:東京都台東区

最終学歴:東京美術学校彫刻科(現在の東京藝術大学美術学部)

高村光太郎の父は彫刻家

まず光太郎の父で彫刻家の高村光雲についてです。

光雲は1852年3月8日(嘉永5年2月18日)、町人の子として生まれました。

1863年(文久3年)、仏師の高村東雲に弟子入りします。


その後、東雲の姉エツの養子になり、高村姓を継承しました。

明治維新後は神道を国教化する目的で、寺院や仏像を焼き払う「廃仏毀釈」が隆盛。

そんな状況下で光雲は仏師の職を失い、苦しい生活を送りながら、木彫に専念します。

伝統的な木彫技術に、西洋の彫刻らしい写実性を加えた、独自の木彫作品を創り上げました。

代表作『老猿』は、1893年(明治26年)にシカゴ万国博覧会へ出品されます。

大鷲と格闘した直後の猿の荒々しさと、細部まで写実にこだわった繊細な表現が見事な名作です。

伝統的な技法と西洋風の表現を結びつけ、新たな木彫芸術を開拓した光雲。

1889年(明治22年)からは東京美術学校で教鞭を取り、退職後は名誉教授として、後進の育成にも携わりました。

息子の光太郎は、父の伝統的な木彫作品にはなじめなかったようです。

西洋の影響を受けた彼は『手』をはじめ、ロダンの影響を受けたブロンズ作品を制作しました。

ただし『手』が、仏像の印相に着想を得ていることから、やはり仏師の血を継いだ影響は作品に表れているといえます。

偉大な芸術家である高村親子の作品は、一見反駁し合っているようでいて、本質は通じ合っているのでしょう。

戦後に戦争責任を追及される

光太郎は太平洋戦争時、戦争賛美の詩を書いたため、戦後に戦争責任を追及されました。

一流詩人が書いた戦争鼓舞の詩に、多くの若者たちは励まされ、戦地へ赴いたのです。

開戦後に光太郎が書いた『必死の時』では、未練を捨てて「必死に」なった時、日本民族は強く気高い存在になると詠っています。

しかし戦後、自身の詩によって戦地で散った若者に思いを馳せ、光太郎は胸を痛めるのです。

ただし戦時中に戦争を賛美する作品を残した文学者は、光太郎だけではありません。

草野心平や三好達治、歌人の斎藤茂吉も、作品を通して国民を鼓舞していました。

現代では平和を訴えることが当たり前ですが、当時は戦争を賛美することが当然の行いだったのです。

彼らは文学者として当然の義務を果たしたつもりだったのでしょう。

戦後、自身の戦争責任に苦しんだ光太郎は、7年間にわたって隠遁生活を送るのです。

彼の隠遁生活については後述しましょう。

高村光太郎の生涯

光太郎は数奇な生涯を送った人物でした。

高名な彫刻家の息子として生まれ、留学を経たのち彫刻家、詩人として活躍。

画家の長沼智恵子と結婚し、アトリエで創作に励みながら暮らしました。

しかし智恵子は実家の破産や一家離散などで心労が重なり、統合失調症を発症。

精神病院に入院した末、結核で亡くなります。

妻について詠った『智恵子抄』と、彼女の臨終を描出した『レモン哀歌』は、詩人・光太郎の美しい代表作です。

智恵子の死後、太平洋戦争が開戦すると、戦争協力詩を数多く執筆。

しかし1945年4月、空襲でアトリエや作品を焼失し、戦争の恐ろしさを痛感するのです。

戦後は東京中野のアトリエへ転居し、彫刻家として最後の作品『乙女の像』を制作しました。

1956年、肺結核により、アトリエで永眠。

病気の妻を看取り、戦争に翻弄されながらも、73年の生涯で数々の詩や彫刻を残しました。

高村光太郎の留学体験

光太郎は1906年(明治39年)3月、父から留学資金を援助してもらい、留学を果たしています。

ニューヨークに1年2か月滞在し、ロンドン、パリにそれぞれ1年ずつ滞在したのち、3年後に帰国しました。

ニューヨークでは、メトロポリタン美術館で、彫刻家ボーグラムの作品に感動。

直接ボーグラムに手紙を書き、助手として働かせてもらいながら、何とか食いつないでいたそうです。

昼間に働き、夜はアート・スチューデンツ・リーグへ通い、芸術を学びました。


日本の古い因習や倫理から自由になった彼は、すべてが新鮮なニューヨークの風景に刺激を受け、猛勉強したそうです。

翌年にはロンドンに移り、現地の画学校で絵画や彫刻の勉強に専念。

余暇は図書館、美術館に加え、劇場に通い西洋文化を楽しみました。

1年後の1908年6月には、最終目的地パリで、フランスの芸術に感動

帰国後の光太郎は、旧態依然とした日本芸術に反抗し、西洋芸術に影響を受けた彫刻作品を作り続けるのです。

インターネットがない時代、彼が初めて見たヨーロッパの芸術は、驚くほど見事で刺激的だったのでしょう。

岩手での隠遁生活

光太郎は戦後、自身の戦争責任を恥じ、岩手県花巻市で7年間の隠遁生活を送ります。

多くの若者を戦争に駆り立て、死に追いやった責任を感じ、自らに流刑の罰を与えたのです。

戦時中、空襲でアトリエと作品を失った彼が疎開していたのは、宮沢賢治の弟・清六が住む岩手県花巻市の家でした。

終戦後の1945年10月、花巻市に粗末な小屋を建て、たった1人で自炊生活を送ります。

岩手は疎開先として親しんだ土地だったため、隠遁生活に最適と考えたのでしょう。

7年後の1952年、青森県から記念碑作成を依頼されたことで仕事復帰。

彼が過ごした小屋は「高村山荘」として保存され、付近に「高村記念館」も開館しました。

光太郎は戦争の恐ろしさを知らない時期に、戦争協力詩を多数生み出します。

しかし空襲を体験し、彼自身が死の恐怖を味わったことで、初めて自身の行為が誤っていたと考えたのでしょう。


岩手での隠遁生活の中で、自身の歩んだ道や亡き妻・智恵子への思いを募らせたであろう光太郎。

岩手の山荘を訪れ、一流芸術家の抱えた闇の面を垣間見てみるのも、有意義な時間になるかもしれませんね。

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