愛妻の智恵子を詠った詩『智恵子抄』で有名な高村光太郎(たかむら こうたろう)。
光太郎は彫刻家で詩人、智恵子は画家という芸術家夫婦でした。
今回は光太郎と智恵子との具体的な関係、馴れ初めエピソードを見ていきましょう。
また2人の子供について、さらに智恵子の統合失調症の詳細に迫ります。
高村光太郎のプロフィール
本名:高村光太郎(たかむら みつたろう)
生年月日:1883年3月13日
死没:1956年4月2日
身長:177cm
出身地:東京都台東区
最終学歴:東京美術学校彫刻科(現在の東京芸術大学美術学部)
妻、智恵子の経歴
まず光太郎の妻である智恵子の経歴から見ていきます。
光太郎は彫刻家であると同時に、与謝野鉄幹と晶子夫婦の「明星」で詩人としても活躍しました。
彼の妻となる智恵子は、1886年(明治19年)に酒造業を営む斎藤今朝吉の長女として生まれます。
今朝吉はのちに長沼家へ養子に入るため、智恵子も長沼姓となりました。
おはようございます。
🎉 高村智恵子さん(1886年生まれ)、お誕生日おめでとうございます。🎂 pic.twitter.com/3h3BKZ8LCF
— ビー🐝ちゃん a.k.a. Açaí (@BradKicchi) May 19, 2020
138年前の今日、詩人で彫刻家の高村光太郎が生まれました。
光太郎は、画家の長沼智恵子と結婚しますが、智恵子は52歳でこの世を去ります。
光太郎は死後も妻への詩を詠み続け、結婚する前の1911年から彼女の死後の30年間にわたって書かれた詩と短歌、散文をまとめた『智恵子抄』を発表しました。 pic.twitter.com/mt2eQPG9tj— 東京歴史倶楽部 (@rekishiclub) March 12, 2021
1903年(明治36年)、福島高等女学校を総代で卒業後、日本女子大学校へ進学。
在学中、油絵に関心を持ち、自由選択科目の洋画に熱中しました。
大学卒業後は両親の反対を押し切り、洋画家を目指して太平洋画会研究所で絵画を勉強。
1911年(明治44年)、雑誌「青鞜」の表紙絵を担当し、画家として注目を浴びます。
智恵子が光太郎と出会ったのは、ちょうど気鋭の画家として評価され始めていた時期のことでした。
高村光太郎と智恵子の関係、馴れ初め
1911年(明治44年)に智恵子は、大学の先輩である柳八重から光太郎を紹介されます。
光太郎との出会いに感化された彼女は、より熱心に絵画を創作し続け、翌年には「太平洋画会展」に油絵を出品。
さらに「団扇絵展」を開催するなど、精力的に活動します。
そして1913年(大正2年)9月、上高地で光太郎と共に絵を描いたことで結婚の決意を固めました。
元々は芸術家の先輩と後輩にあたる2人でしたが、ついに愛し合う関係となったのです。
1914年(大正3年)12月、2人は千駄木のアトリエで同棲を開始。
経済的には苦しく事実婚だったものの、お互いを支え合いながら、芸術家として有意義な時間を過ごしたのです。
高村光太郎と智恵子の子供は?
光太郎と智恵子には子供がいませんでした。
光太郎に影響された詩人の尾崎喜八によると、高村夫婦は「互いに子供を作らないと決めていた」そうです。
一方で、「智恵子は子供を産みたがっていた」という証言もあります。
おそらく光太郎が「子供を作らない」と決めていたため、妻に自分の意思を押し付けた可能性が高いでしょう。
光太郎は世俗的な父親になるのを拒み、純然たる芸術家であり続けたかったのです。
ただし1919年(大正8年)、智恵子は不妊症治療と思われる手術を受けています。
子宝を望む智恵子に、光太郎が譲歩したため、手術が実現したのでしょう。
しかし智恵子はこの時期、肋膜炎の持病や精神的な不調に悩まされ始めていました。
結果的に病を抱えた身体では、子供を産むことはできなかったのです。
智恵子は統合失調症だった
智恵子は手術を受ける前年に父を亡くし、心労が溜まっていたようです。
さらに実家が破産し、一家は離散。
度重なる不運を味わい、絵画の制作も捗らなくなっていました。
1931年(昭和6年)、光太郎が取材の仕事で留守にしている間、智恵子に統合失調症の兆候が出始めます。
翌年、智恵子は睡眠薬で自殺を図りますが、未遂に終わりました。
これまでは事実婚でしたが、1933年(昭和8年)、光太郎は彼女を支えるため正式に入籍します。
光太郎は彼女を療養させようと、東北地方の温泉へ連れて行くものの、症状は悪化してしまいました。
ついに品川のゼームス坂病院へ入院した智恵子。
精神病には手作業が効果的と聞いた光太郎は、妻のために病室へ千代紙を持参します。
病床の智恵子は千代紙を使って、千点以上の紙絵を創作しました。
こんにちは🌼今日は #レモンの日 ─高村光太郎の「レモン哀歌」に因み、高村智恵子の命日である10/5(1938年)をそう呼ぶのだそうです。
─よい一日を🍀
(切り絵:高村智惠子) pic.twitter.com/OEWRWh1F78— カトウ・ニニ。 (@ninikatu) October 5, 2017
1938年(昭和13年)、夏頃から症状が悪化し、紙絵の制作も滞りがちになります。
そして同年10月5日、粟粒性肺結核により52歳で亡くなりました。
光太郎は智恵子の臨終の様子を詩『レモン哀歌』に描いたため、彼女の命日は「レモン忌」と呼ばれています。
妻が亡くなる数時間前にレモンをかじる様子を、美しくつづった「レモン哀歌」。
飾り原稿用紙の新作が出たので久しぶりにゆる書写の過去のお題を。
高村光太郎『智恵子抄』よりレモン哀歌。つづみM/つづみ#飾り原稿用紙 蜜柑網#深夜のゆる書写60分一本勝負 pic.twitter.com/nm9cell6mh
— ふぉるかん (@c742fa) March 25, 2019
詩は今なお人々の胸を打ち、彼女の命日は「レモンの日」となりました。
本日10月5日はレモンの日
1938年のこの日に詩人の高村光太郎の妻・智恵子が亡くなり、亡くなる数時間前にレモンをかじる姿をうたった、「智恵子抄」の「レモン哀歌」にちなんで制定されました。レスカフロート#レモンの日 pic.twitter.com/nHQw8FTIZ4
— らいらっく (@pfeasy) October 5, 2019
元々は健康体だった智恵子ですが、度重なる不幸や、子供のいない生活に精神を病んでしまったのでしょう。
また彼女は度々、田舎の空気を吸いに東京を出ていたそうです。
芸術のことばかり考えていた光太郎との同棲生活は、おそらく彼女にとって窮屈なものだったのでしょう。
光太郎は智恵子が病気になって初めて、「彼女を支えたい」と考えたに違いありません。
2人は深い愛情で結ばれていたことは確かでしょう。
ただ芸術家夫婦であることを考えれば、『智恵子抄』から想像できる関係より、もう少し闇の深い複雑な関係にあったのでしょう。
高村光太郎の父は彫刻家。戦争責任と生涯。留学体験、岩手での隠遁生活
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