高村光太郎、妻・智恵子との関係。子供は?統合失調症とレモン哀歌

愛妻の智恵子を詠った詩『智恵子抄』で有名な高村光太郎(たかむら こうたろう)。

光太郎は彫刻家で詩人、智恵子は画家という芸術家夫婦でした。

今回は光太郎と智恵子との具体的な関係、馴れ初めエピソードを見ていきましょう。

また2人の子供について、さらに智恵子の統合失調症の詳細に迫ります。

高村光太郎のプロフィール

本名:高村光太郎(たかむら みつたろう)

生年月日:1883年3月13日

死没:1956年4月2日

身長:177cm

出身地:東京都台東区

最終学歴:東京美術学校彫刻科(現在の東京芸術大学美術学部)

高村光太郎と妻:芸術と愛に生きた夫婦の物語

高村光太郎は、日本を代表する彫刻家であり詩人として知られています。

彼の人生において、妻である智恵子との関係は非常に重要な位置を占めています。

二人の夫婦関係は、芸術と愛情が交錯する独特な物語として、今なお多くの人々の心を捉えています。

出会いから結婚まで

光太郎と智恵子の出会いは、1911年の冬のことでした。


当時、智恵子は新進気鋭の女性画家として注目を集めていました。

二人は共通の知人を通じて紹介され、すぐに意気投合したと言われています。

光太郎は智恵子の純粋さと芸術への情熱に惹かれ、智恵子は光太郎の近代的な考え方と芸術家としての才能に魅了されたようです。

この出会いは、二人の人生を大きく変える転機となりました。

当時の日本社会では、芸術家同士の結婚は珍しく、周囲の反対も少なくなかったと考えられます。

しかし、二人は互いの芸術性を理解し、尊重し合う関係を築いていきました。

光太郎と智恵子は、1914年に結婚しました。

この結婚は、単なる夫婦の結びつきを超えた、芸術的な共鳴を伴うものだったと言えるでしょう。


二人は東京の駒込にアトリエを構え、共に創作活動に励みました。

光太郎は彫刻と詩作に、智恵子は絵画制作に打ち込みました。

この時期、二人は互いの才能を刺激し合い、芸術的な成長を遂げていったと考えられます。

しかし、芸術家としての生活は決して楽ではありませんでした。

経済的な困難や、社会からの理解不足など、様々な障害に直面したことでしょう。

それでも、二人は互いを支え合い、芸術への情熱を失うことはありませんでした。

光太郎は、智恵子との生活を通じて、芸術と人生の本質について深く考えるようになったと言われています。

この経験は、彼の作品に深みと豊かさをもたらしたと考えられます。


一方、智恵子も光太郎との生活を通じて、自身の芸術観を深化させていったようです。

二人の関係は、互いの芸術性を高め合う、創造的な共生関係だったと言えるでしょう。

光太郎と智恵子の夫婦関係は、時に困難に直面しながらも、常に愛情と尊重に満ちたものでした。

二人は互いの個性を認め合い、それぞれの芸術活動を支え合いました。

この関係性は、当時の日本社会においては非常に先進的なものだったと考えられます。

光太郎は、智恵子との生活を通じて、女性の社会的地位や権利について深く考えるようになりました。

この経験は、彼の詩作や評論にも反映されています。

智恵子もまた、光太郎との生活を通じて、女性芸術家としての自覚を深めていったと言われています。


二人の関係は、単なる夫婦関係を超えた、芸術的な同志としての絆でもあったのです。

光太郎と智恵子の夫婦関係は、時代を超えて多くの人々に感銘を与え続けています。

それは、二人の関係が純粋な愛情と芸術への情熱に基づいていたからでしょう。

光太郎が智恵子への愛を綴った詩集『智恵子抄』は、今なお多くの読者に愛されています。

この作品は、二人の関係の深さと美しさを如実に表現しています。

『智恵子抄』に収められた詩の中で、光太郎は智恵子との日常や、彼女への深い愛情を繊細に描写しています。

これらの詩は、単なる恋愛詩を超えた、人生と芸術の本質を問う作品となっています。

光太郎と智恵子の関係は、芸術家同士の理想的な夫婦関係のモデルとして、今も多くの人々に影響を与えています。

二人の生き方は、芸術と人生を一体のものとして捉える姿勢を示しています。


この姿勢は、現代の芸術家たちにも大きな示唆を与えているのではないでしょうか。

光太郎と智恵子の夫婦関係は、困難や苦悩を伴うものでもありました。

しかし、二人はそれらを乗り越え、互いを高め合う関係を築き上げました。

この経験は、光太郎の芸術をより深みのあるものにしたと考えられます。

二人の関係は、芸術と人生が不可分であることを示す、生きた例と言えるでしょう。

光太郎と智恵子の夫婦関係は、今なお多くの人々の心を打ち、芸術と愛の可能性を示し続けています。

高村光太郎と智恵子の子供は?

光太郎と智恵子には子供がいませんでした。

光太郎に影響された詩人の尾崎喜八によると、高村夫婦は「互いに子供を作らないと決めていた」そうです。

一方で、「智恵子は子供を産みたがっていた」という証言もあります。

おそらく光太郎が「子供を作らない」と決めていたため、妻に自分の意思を押し付けた可能性が高いでしょう。

光太郎は世俗的な父親になるのを拒み、純然たる芸術家であり続けたかったのです。

ただし1919年(大正8年)、智恵子は不妊症治療と思われる手術を受けています。

子宝を望む智恵子に、光太郎が譲歩したため、手術が実現したのでしょう。

しかし智恵子はこの時期、肋膜炎の持病や精神的な不調に悩まされ始めていました。

結果的に病を抱えた身体では、子供を産むことはできなかったのです。

智恵子は統合失調症だった

智恵子は手術を受ける前年に父を亡くし、心労が溜まっていたようです。

さらに実家が破産し、一家は離散。

度重なる不運を味わい、絵画の制作も捗らなくなっていました。

1931年(昭和6年)、光太郎が取材の仕事で留守にしている間、智恵子に統合失調症の兆候が出始めます。

翌年、智恵子は睡眠薬で自殺を図りますが、未遂に終わりました。


これまでは事実婚でしたが、1933年(昭和8年)、光太郎は彼女を支えるため正式に入籍します。

光太郎は彼女を療養させようと、東北地方の温泉へ連れて行くものの、症状は悪化してしまいました。

ついに品川のゼームス坂病院へ入院した智恵子。

精神病には手作業が効果的と聞いた光太郎は、妻のために病室へ千代紙を持参します。

病床の智恵子は千代紙を使って、千点以上の紙絵を創作しました。

1938年(昭和13年)、夏頃から症状が悪化し、紙絵の制作も滞りがちになります。

そして同年10月5日、粟粒性肺結核により52歳で亡くなりました。

光太郎は智恵子の臨終の様子を詩『レモン哀歌』に描いたため、彼女の命日は「レモン忌」と呼ばれています。

妻が亡くなる数時間前にレモンをかじる様子を、美しくつづった「レモン哀歌」。

詩は今なお人々の胸を打ち、彼女の命日は「レモンの日」となりました。

元々は健康体だった智恵子ですが、度重なる不幸や、子供のいない生活に精神を病んでしまったのでしょう。

また彼女は度々、田舎の空気を吸いに東京を出ていたそうです。

芸術のことばかり考えていた光太郎との同棲生活は、おそらく彼女にとって窮屈なものだったのでしょう。

光太郎は智恵子が病気になって初めて、「彼女を支えたい」と考えたに違いありません。


2人は深い愛情で結ばれていたことは確かでしょう。

ただ芸術家夫婦であることを考えれば、『智恵子抄』から想像できる関係より、もう少し闇の深い複雑な関係にあったのでしょう。

関連記事
高村光太郎の父は彫刻家。戦争責任と生涯。留学体験、岩手での隠遁生活

室生犀星が椅子を振り回す?萩原朔太郎との友情、妻について。犀川と生い立ち

萩原朔太郎は猫好き?イケメンで性格は?娘はエッセイスト&生家と生い立ち

中原中也の死因は? 酒好きな性格がわかるエピソード。鎌倉との縁、愛した旅館

武者小路実篤、邸跡は我孫子。農業への愛&野菜の絵。結婚観と孫の現在

コメント