下田歌子の生涯。津田梅子は同志&和歌、明治天皇との関係。袴スタイルの考案者

実践女子学園の創立者・下田歌子(しもだ うたこ)。

教育者であると同時に、和歌の才能にも秀でた才女でした。

今回は歌子の生涯、津田梅子の教え子という情報、和歌と明治天皇との関係に迫ります。

また女学生におなじみの、袴スタイル考案者としての業績をご紹介します。

下田歌子のプロフィール

出生名:平尾鉐(ひらお せき)

生年月日:1854年9月29日(嘉永7年8月8日)

死没:1936年10月8日

身長:不明

出身地:美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)

下田歌子の生涯

歌子の生涯を見ていきましょう。

歌子の本名は鉐(せき)です。


生まれたのは現在の岐阜県を拠点とした岩村藩士の家でした。

父は幕末に勤王派だったため謹慎を命じられており、一家の生活は苦しかったようです。

そんな中でも、鉐は祖母から読み書きを学び、幼くして和歌を詠むなど早熟な少女でした。

明治に入ると、祖父と父が新政府に招かれ、一家は上京。

17歳の鉐は、国境の三国山で「綾錦着て 帰らずは三国山 またふたたびは 越えじとぞ思ふ」と詠みました。

1872年(明治5年)、女官として宮中へ出仕し、「歌子」の名前で歌人としても活躍。

剣客の下田猛雄と結婚後は宮中を辞しますが、夫はすぐに病死してしまいます。

彼を看取るまで、看病の傍ら私塾「桃夭女塾(とうようじょじゅく)」を開講し、学のない女性たちに古典や和歌を教えました。

1884年(明治17年)、塾の実績が評価され、華族女学校の教授となります。

その後1893年(明治26年)、皇女教育のため欧米教育視察を任命されました。

同年9月に初めての海外へ出発し、イギリスの英語学校へ通学。

12月にはロンドンへ行き、ヴィクトリア女王の女官を通じて、王家の教育に触れます。

女王一家は日本の皇族と異なり、庶民と親しく交流していたため、歌子は感銘を受けました。

やがて彼女は皇女教育ではなく、一般女子の教育を目指すようになり、庶民の女学校を視察。

帰国後は特権階級以外にも学問の場をもたらすため尽力し、1908年(明治41年)、実践女学校を創立しました。

女子教育に生涯を捧げたのち、肺炎により82歳で逝去。

歌子は一般女子が学問を受けられるよう邁進し、実践女子学園の基盤を築いた、偉大な教育者だったのです。

津田梅子は同志

津田塾大学の創立者として有名な津田梅子。

女子教育の推進者としては、歌子よりも知名度が高いですね。

梅子が初めて歌子に出会ったのは、伊藤博文からの紹介でした。

歌子は自身が主宰する私塾「桃夭女塾(とうようじょじゅく)」の英語教師として、梅子を雇います。

日本女子初の留学生だった梅子は、幼少期をアメリカで過ごしたため、英語が母国語のようなものでした。

歌子自身も彼女から英語を習う代わりに、日本語を教えてあげます。

1885年(明治18年)、歌子は華族女学校の教授となり、梅子も教授補に就任。

2人は女子教育推進という同じ志を抱きながら、協調関係を築くのです。

同志として互いに切磋琢磨し合い、女子教育機関の設立に尽力したのでしょう。

和歌、明治天皇との関係

歌子は教育者だけでなく、歌人としても知られています。

わずか5歳で俳句、漢詩と共に和歌を作っていたため、神童と扱われました。

1872年(明治5年)、女官となり宮中へ出仕。

武家仕込みの礼儀作法と和歌の才能で、明治天皇の皇后・美子から寵愛されました。

「歌子」の名を贈ったのも皇后だったそうです。

こうして歌子は宮廷で和歌を教えるようになります。

歌子は明治天皇の皇后から絶大な信頼を寄せられた、時代を代表する一流歌人でもあったのです。

下田歌子は袴スタイルの考案者

歌子は華族女学校学監を務めた頃、宮中の袴にヒントを得て、女袴の制服を考案しました。

男用の袴と異なり、股が分かれていないロングスカート風の袴は、機能性と美しさを備えています。

歌子は10年近い宮中勤務の中で、宮中の装束を知り尽くし、長所を制服に取り入れたのです。

海老茶色の指定カラーが特徴だった華族女学校の袴は、やがて全国へ広がりました。


女学生を象徴する海老茶色の袴は、歌子が考案者だったのです。

歌子は教育者、歌人、そして袴の考案者として、女子教育の門戸を開いた偉人といえるでしょう。

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