津田梅子の性格。アメリカ留学で英語力は?生い立ちと経歴、数奇な生涯

2024年に5千円札の肖像となる津田梅子(つだ うめこ)。

津田塾大学の創立者で、女子の英語教育に心血を注いだ人物です。

歴史的な偉人として知られる梅子ですが、どのような人柄の女性だったのでしょうか。

今回は梅子の性格に迫りつつ、アメリカ留学と英語力の詳細、生い立ちと経歴をまとめます。

津田梅子のプロフィール

本名:津田梅子(幼名:うめ)

生年月日:1864年12月31日(元治元年12月3日)

死没:1929年8月16日

身長:不明

出身地:江戸牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)

最終学歴:ブリンマー大学

津田梅子の性格は頑固

まず梅子の性格を見ていきます。

梅子が非常に頑固な性格だったことは間違いないでしょう。


ただし肯定的な意味での頑固さを持ち合わせていたため、自分の意志を貫き、目標を実現できたのです。

アメリカ留学から帰国後、彼女は日本の封建的な風土にうんざりし、アメリカへ戻っています。

そしてアメリカで勉学に励み、日本で女子教育制度を整えることを決意するのです。

アメリカではのちにノーベル生理学賞を受賞するトーマス・モーガンに師事し、生物学を研究しました。

帰国後は実際に女子教育機関を設立し、無報酬でも懸命に働いて、女子教育に人生を捧げます。

また結婚して家庭を守るだけの人生を拒否し、生涯独身を貫きました。

梅子の経歴からうかがえる通り、一度決意したことはどんな状況でもやり遂げる、頑固な女性だったのでしょう。

アメリカ留学の経緯

日本女性初の留学生として、アメリカ留学を果たした梅子。

きっかけは、北海道開拓使だった父が、開拓使次官の黒田清隆による「女子留学生計画」へ娘を応募させたことでした。

1871年(明治4年)、わずか6歳だった梅子は、岩倉使節団の留学生に選ばれアメリカへ向かいました。

女子留学生は5人いましたが、梅子は最年少だったそうです。

梅子はワシントンのジョージタウンに住む、日本弁務官書記チャールズ・ランマンの元でホームステイ。

現地の学校へ通い、キリスト教の洗礼を受けるなど、完全にアメリカの慣習の中で育ちました。

1878年(明治11年)、コレジエト校を卒業後、私立の女学校アーチャー・インスティチュートに進学します。

そしてラテン語、フランス語、心理学、自然科学などを学びました。

3年後には帰国命令が出るものの、梅子は在学中だったため期間を延長。

1882年(明治15年)に学校を卒業し、約11年ぶりに日本へ帰りました。

先進的なアメリカで育った梅子は、日本で女性が働けず、結婚して夫に従うしかない状況であることに驚きます。

梅子は帰国時点で、「女子の学校を作りたい」と野心に燃えていたのでしょう。

そのため彼女自身も、家族から結婚を強要されると断固拒否し、1889年(明治22年)に再びアメリカへ留学。

ブリンマー大学で生物学を学び、カエルの生まれ方について実験を行い、論文にまとめています。

梅子にとってアメリカは、もはや生まれ故郷に近く、日本の方が異世界のような存在だったのでしょう。

そして日本へ再び帰国後は、女子教育制度を日本へ根付かせるため尽力するのです。

津田梅子の英語力は?

梅子は6歳の頃から10年以上をアメリカで過ごしたため、すっかり英語が身についていました。

帰国後は日本語を話せなくなっていたため、大変困ったといいます。

そんな中、外務大臣井上馨のパーティーで、共にアメリカへ渡った岩倉使節団のメンバー伊藤博文と再会。

彼の紹介で、私塾「桃夭女塾(とうようじょじゅく)」の主宰者だった下田歌子と出会いました。

梅子は博文の通訳を務めながら、桃夭女塾で英語教師も兼任。

同時に歌子から日本語を教わり、徐々に日本語を修得していったのです。

彼女の英語力はハイレベルどころか、英語が母国語同然でした。

むしろ日本語を必死に勉強したことで、英語とのバイリンガルになれたといえますね。

津田梅子の生い立ち

1864年(元治元年)、梅子は幕臣の津田仙と、彼の妻初子の次女として生まれます。

江戸幕府の崩壊により父は失職しますが、築地にあるホテル館に就職。

仙はアメリカ滞在経験があり、「日本でもアメリカのように女子教育を進めるべき」と考えていました。

幼い梅子は、手習いや踊りを習いつつ、父が栽培する西洋野菜の収穫を手伝っていたそうです。

そんな中、梅子にアメリカ留学の話が持ち上がりました。

姉の琴子が留学を嫌がったため、物心つく前の梅子が成り行きで渡米したといえますね。

女子英学塾開校と経歴

梅子は幼少期にアメリカで育ち、語学に加え、文学や科学を学びました。

日本へ帰国後は華族女学校で英語教師を務めますが、明治33年(1900年)に退職。

富裕層の女子しか教育を受けられない現状に、嫌気がさしていたのかもしれません。

そして父の仙、同じ留学生だった大山捨松、アメリカの友人アリス・ベーコンらの協力を得て、女子英学塾を開校。

同校が今の津田塾大学です。

梅子は同校を開校し、華族も平民も差別なく教育を受けられるよう、女子教育制度を整えました。

しかし資金援助が少額だったため、梅子やベーコンらは一時期、無報酬で教職を務めていたそうです。

梅子は過労がたたったのか、健康を害し、1919年(大正8年)に塾長を辞任。


そして10年後、脳出血により64歳で亡くなりました。

幼くして留学を果たし、後年は女子教育のために尽力した数奇な生涯。

彼女の志を継いだ人々が教育制度を整えた結果、津田塾大学は今でも名門女子校として運営し続けています。

梅子の生涯は、勉学に励む女性たちにとって大きな指標となり続けるでしょう。

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