広岡浅子、日本女子大学と大同生命の設立。津田梅子との関係、囲碁の腕前と生い立ち

NHK朝の連続テレビ小説『あさが来た』の主人公あさのモデル・広岡浅子(ひろおか あさこ)。

日本の女性が自立できるよう、生涯をかけて尽力した教育者・実業家でした。

今回は浅子が、日本女子大学と大同生命の設立にどう貢献したかを見ていきます。

また同じく女性の自立を目指した津田梅子との関係、囲碁の腕前、生い立ちを確認します。

広岡浅子のプロフィール

本名:広岡浅子

生年月日:1849年10月18日(嘉永2年9月3日)

死没:1919年1月14日

身長:不明

出身地:山城国京都(現在の京都府京都市)

日本女子大学と大同生命の設立

浅子が日本女子大学と大同生命設立に貢献するまでを見ていきます。

日本女子大学の前身・日本女子大学校は、1901年(明治34年)に創立されました。

かつて学問を禁じられた浅子は、女子教育の普及を早くから志しています。


彼女は1896年(明治29年)、梅花女学校の校長・成瀬仁蔵から、著書『女子教育』を渡されました。

『女子教育』に感銘を受けた浅子は成瀬と共に、有力者へ女性の教育と自立の重要性を訴えます。

さらに実家の豪商三井家へ支援を仰ぎ、三井家より目白台の土地を寄付してもらうのです。

彼女の努力が実り、創立された日本女子大学校。

創立者は成瀬ですが、開校には浅子の活動が不可欠だったのです。

彼女は発起人の1人として、創立時の評議員となりました。

また夫・広岡信五郎も女子大学校の創立委員として活動しています。

さらに浅子は大同生命創業にも貢献しました。

当時は生命保険制度が浸透しておらず、「保険に入れば早死にする」という迷信すらあったそうです。

しかし浅子は、保険制度が社会経済を活性化させ、人々の生活を安定させると考えていました。

彼女の嫁ぎ先である広岡家が運営する大坂の豪商加島屋は、経営危機にあった「真宗生命」を買収。

保険業に乗り出し、「朝日生命」と改称したのち、「護国生命」「北海生命」と合併。

1902年(明治35年)、「大同生命保険株式会社」となりました。

加島屋は大坂の有力な財閥へのし上がっていきます。

保険会社創業に貢献した浅子は、明治を代表する女性実業家となりました。

女性の自立と生活の安定を目指し、全力で事業に取り組んだのです。

広岡浅子と津田梅子の関係

浅子と同じく、女子教育機関の設立に尽力したのが、津田梅子です。

津田塾大学の前身・女子英学塾の創立者であり、2024年の新5千円札では肖像に選ばれました。

ただ浅子と梅子は、同じように女子教育を推進した人物として、よく間違われがちです。

SNS上では、梅子を『あさが来た』のヒロインと勘違いしてしまった人も多数いるようでした。

浅子と梅子は同時期に、女子教育機関の設立という同じ志を抱いていました。

朝ドラや大河ドラマで描かれると、つい混同させてしまうのは無理もありませんね。

囲碁の腕前

浅子は囲碁が好きな女性でした。

『あさが来た』でも、主人公あさが祖父と囲碁をするシーンが描かれましたね。

1908年(明治41年)、政財界の囲碁好きがプロ棋士と対局する朝日新聞の企画で、浅子は第6回ゲストとして登場。

のちに「日本囲碁界の母」と呼ばれる女流棋士・喜多文子と対局しました。

浅子はわずかな差で負けてしまったものの、堅実なやり方で一流プロ棋士と互角に戦ったそうです。

囲碁のプロによれば、豪腕経営者のイメージと裏腹に、彼女の囲碁の手は非常に繊細だったといいます。

プロを相手に最後まで破綻せず、冷静に打ち進める実力があったのです。

豪胆なだけでなく、常に冷静さを失わなかったからこそ、一流経営者になり得たのでしょう。

広岡浅子の生い立ち

浅子は豪商三井家の1つ、「出水(でみず)三井家」の6代目当主・三井高益(たかます)の四女です。

2歳の時には、豪商加島屋の8代目当主・広岡久右衛門正饒(まさあつ)の次男・信五郎との結婚が決まっていました。

信五郎は10歳でしたが、有力な分家の加島屋五兵衛へ養子に入り、次期当主となる予定だったのです。

浅子は豪商へ嫁ぐ将来に備え、三味線や琴、裁縫などの教養を修得。

しかしお転婆だった彼女は、お嬢様教育にうんざりしていたようです。

木登りや丁稚との相撲が好きなお転婆娘に、お稽古事は苦行だったことでしょう。

浅子はよく髪型を崩すため母から叱られていましたが、ある日髪の毛を切ってしまえば叱られないと考えました。

そこでこっそり髪の毛を切ったところ、乳母が見つけて大騒ぎになります。

やむを得ず付髷をしましたが、今度はよく付髷をころころと落とすようになったそうです。

そんな彼女には、男兄弟が取り組んでいた論語や大学など「学問」の方が魅力的でした。

彼女は書物に興味を持ったものの、「男子の学問を真似るな」と家人に大反対され、読書を禁じられてしまいます。

13歳だった浅子は、当時のことを生涯忘れず、女性が学問に励める世の中を作るため邁進するのです。


17歳で結婚してからは、男性顔負けの手腕で加島屋の経営に貢献し、学校や保険会社の設立に関わります。

彼女の原点はお嬢様教育への反抗と、学問を禁じられたことへの不満だったのです。

お転婆娘の浅子は原点を忘れなかったからこそ、数々の業績を残し、一流実業家へとのし上がったのでしょう。

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