自由民権運動で有名な板垣退助(いたがき たいすけ)。
「岐阜事件」で暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を残したとされています。
しかし彼は事件で暗殺されたわけではありません。
今回は板垣暗殺未遂事件の詳細、遭難の状況、死因を見ていきましょう。
さらに自由民権運動とは、具体的にどのような運動だったのかご紹介します。
併せて坂本龍馬、大隈重信との関係にも迫りましょう。
板垣退助のプロフィール
本名:板垣退助(幼名:猪之助)
生年月日:1837年5月21日(天保8年4月17日)
死没:1919年7月16日
身長:不明
出身地:土佐国高知城下中島町(現在の高知県高知市)
板垣退助の暗殺未遂。遭難事件の詳細と死因
板垣の暗殺未遂事件「岐阜事件」が起きたのは、1882年(明治15年)4月6日でした。
日本初の政党「自由党」の党首となった板垣は、現在の岐阜市にあった「神道中教院」で自由党懇親会の演説を実施。
午後6時半頃、彼は帰途に就くため中教院の玄関を出ます。
その時、男が刃渡りおよそ27センチの短刀を持って板垣を襲い、彼の左胸を刺しました。
柔術を心得ていた板垣は応戦し、もみ合いとなっている所へ、内藤魯一が駆け寄って男を押さえました。
4月6日は #板垣退助 が岐阜で刺されて「#板垣死すとも自由は死せず」言ったと伝えられる板垣退助遭難事件の日です。
もっとも本人はアッと思って声も出なかったとも。
医者でもある #後藤新平 が板垣の治療に当たります。
なお現場である #岐阜公園 には板垣の銅像が建ちました。 #今日は何の日 pic.twitter.com/tG5OODamJ7— みなと/明治大正昭和の男色本発売中 (@minato_i_) April 6, 2020
門前にあった傘屋へ避難した板垣は、左胸や右胸、両手と左頬の7か所に傷を負っていいたそうです。
襲われた際に叫んだとされる「板垣死すとも自由は死せず」については、さまざまに憶測されてきました。
現場にいた内藤魯一の言葉という説や、土佐弁で「自由が死ぬるかや」と発言したという説などがあります。
また板垣自身は、刺された瞬間「アッと思っただけで声も出なかった」と語っているようです。
実際の具体的な状況は、想像するしかなさそうですね。
#麻呂の一口歴史 [124]
板垣退助遭難事件
1882年自由民権運動家として有名な板垣が暴漢に刺された事件です。別に言葉通り遭難したわけではありません。
その際に「板垣死すとも自由は死せず」と板垣は叫んだとされてますが、「もぅマヂ無理、メチャ痛い、医者呼んで」と言ったとする説もあります。 pic.twitter.com/psSj7BU07j— 藤原なよ麻呂 (@newspeak_IS2) January 13, 2019
逮捕されたのは、士族の相原尚褧(あいはら なおふみ)でした。
相原は政府側の重鎮・福地源一郎が主宰する『東京日日新聞』の愛読者だったそうです。
そのため自由民権を訴える板垣を憎み、暗殺を計画しました。
しかし板垣は一命をとりとめ、相原のために助命嘆願して、彼を恩赦で極刑から救います。
のちに2人は和解しているため、板垣が非常に寛大な偉人だったことがうかがえますね。
「板垣死すとも」の言葉によって、どうしても事件で暗殺された印象の強い板垣。
しかし実際には遭難事件から37年後、肺炎により82歳で亡くなりました。
厚い志を抱き続け、見事に天寿を全うしたのです。
自由民権運動とは?
板垣が生涯をかけた自由民権運動は、具体的にどのような運動だったのでしょう。
自由民権運動を簡単に説明すると、民衆を省みない明治政府に対し、政治改革を迫った運動のことです。
1870年代後半から、特権階級を優遇する政府に反発した民衆が、各地で反乱を起こしました。
板垣は、西洋のように民衆による議会をもうけ、政治に民意を反映させれば暴動は治まると考えます。
政府と対立していた板垣は、「明治六年の政変」で官職を辞しました。
以降は「愛国公党」を結成して、自由民権運動を本格化させていくのです。
1881年(明治14年)には自由党を結成し、総理国会を開設。
「国会の創設者」として、貴族だけでなく民衆を参加させる政治の土台を築き上げました。
今日の民主政治の礎を作った人物といえますね。
板垣退助と坂本龍馬
同じ土佐藩出身の板垣と坂本龍馬。
【高知県】
1.坂本龍馬像
2.ひろめ市場
3.高知城
4.板垣退助高知も魅力に溢れてました(^^)#高知県#高知観光#ひろめ市場#坂本龍馬#高知城#板垣退助 pic.twitter.com/AA6wN8XvFq
— FUMIYA@元検査技師×投資家 (@mr_f_investor) March 25, 2020
武田鉄矢さん原作の漫画『お~い!竜馬』では、上士の板垣から、商家出身の龍馬がいじめられる場面がありました。
いま、日B幕末やしお父さんと話盛り上がったりしたで滾ってしまったので
今からお~い!竜馬全巻読む🙋 pic.twitter.com/bxcdifLIdX
— mao (@Mario_100338) April 19, 2015
しかしエピソードは創作で、実際の2人には接点がありません。
上士の板垣と郷土出身の龍馬では身分が違ったため、直接交流したことはないのです。
しかし、板垣の同志・後藤象二郎は、龍馬と協力関係にありました。
もし板垣と龍馬に面識があれば、最強のタッグを組んでいたかもしれませんね。
板垣退助と大隈重信
板垣と大隈重信は、共に日本初の政党内閣を結成しました。
国会の広間には板垣退助、大隈重信、伊藤博文の3つの銅像と1つの空の台座がある。この台座は「政治に完成はない」という意味がある。#一日一雑学 pic.twitter.com/UMfKax8aAa
— さかづき (@aoi_suplex) August 30, 2020
1898年(明治31年)、板垣の自由党と大隈の進歩党は合流し、憲政党を作ります。
板垣は日本初の政党内閣「第1次大隈内閣」で、内務大臣となりました。
そのため同内閣は、2人の姓を合わせ「隈板内閣(わいはんないかく)」とも呼ばれます。
しかし明治天皇が大隈を信用していなかった上、元自由党と元進歩党のメンバー間の対立が起き、前途多難な内閣でした。
結局、何らの成果も出せないまま、内閣は4か月で総辞職します。
板垣と大隈はいずれも偉人ですが、お互いに主張が激しいからこそ、共同関係には適していなかったのでしょう。
教科書だけではうかがえない板垣の人柄やエピソードは数多くあります。
単なる偉人ではなく、1人の人間として彼の生涯をひも解いて見るのも面白いでしょう。
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