大隈重信がしたこと。日本初の政党で総理大臣。早稲田大学の創立について

幕末から明治、大正にかけて活躍した政治家の大隈重信(おおくま しげのぶ)。

今回は大隈がしたことは何なのか、具体的な功績をまとめます。

とくに日本初の政党で内閣総理大臣に就任した際の詳細、早稲田大学の創立に焦点を当てましょう。

大隈重信のプロフィール

本名:大隈重信(幼名:八太郎)

生年月日:1838年3月11日(天保9年2月16日)

死没:1922年1月10日

身長:推定180cm

出身地:肥前国佐賀城下会所小路(現在の佐賀県佐賀市水ヶ江町)

最終学歴:弘道館

大隈重信がしたことは?功績まとめ

まず大隈がしたことの全体像を見ていき、功績をまとめます。

佐賀藩士・大隈信保と三井子夫婦の長男として生まれた大隈。


7歳で藩校「弘道館」へ入学するものの、儒学や漢学中心の教育方針に反抗し、18歳で館を離れます。

以降は洋学を学ぶため蘭学寮へ入学、同時に尊王思想を学びました。

その後は脱藩して京へ向かい、志士活動を行います。

明治維新時は新政府で外国事務局判事を務め、隠れキリシタン弾圧問題でイギリス公使パークスと交渉。

一時的に問題を解決させ、外交手腕の高さを証明します。

以降は大蔵卿や外務大臣、農商務大臣などを歴任。

さらにグレゴリオ暦の採用、鉄道の敷設など、日本における近代制度の導入に貢献しています。

政治、外交、教育、金融など、さまざまな分野で手腕を発揮した偉人といえますね。

現代人が当たり前のように使っている制度の多くは、大隈が築いた礎の上に成り立っているのでしょう。

日本初の政党内閣で総理大臣に就任

ここから大隈の功績の中でも、とくに重要なものに絞ってご紹介します。

まず日本初の政党内閣で総理大臣に就任するまでを見ていきましょう。

1870年代後半から、民意を反映させない政府に反発した人々が改革を求める、自由民権運動が活発化。

政府は国会を開設し、民主政治を行うか検討し始めます。

多くの政治家が慎重論を取る中、大隈だけはいち早く国会を開設するよう主張しました。

しかし大隈の考えは過激な主張として捉えられ、伊藤博文らが抗議し、大隈は罷免されてしまうのです。

いわゆる「明治十四年の政変」で、大隈は下野。

1882年(明治15年)、同志と共に「立憲改進党」を結成すると、手腕が認められ再び外務大臣として政府に入ります。

しかし翌年、極秘だったはずの憲法草案が明るみに出たことで、国粋主義者による爆弾テロで右脚を切断する悲劇に見舞われました。


大隈はひるまず政治活動を続け、1898年(明治31年)、板垣退助と共に「隈板(わいはん)内閣」を組閣。

板垣が内務大臣就任を望んだため、大隈が内閣総理大臣に就任します。

こうして組閣された「第1次大隈内閣」は日本初の政党内閣となりました。

しかし大隈内閣は内部分裂が激しく、結局成果を挙げないまま、4か月で解散します。

その後大隈は1914年(大正3年)、16年ぶりに再び内閣総理大臣となりました。

2年後に78歳で解散するまで、総理の職責を果たしています。

1度目の内閣は、板垣と大隈の二大巨頭による政治だったため、お互い譲歩せず対立することも多かったのでしょう。

しかし2度目の内閣では、大隈が絶大な人気を誇り、高齢ながら2年の職務を全うしたのです。

早稲田大学の創立

大隈の功績で、内閣総理大臣としての活動以外に重要なのが、早稲田大学の創立です。

日本が西洋諸国と肩を並べられるよう、日本人の啓蒙を推進するため、教育機関設立に尽力。

1882年(明治15年)に、早稲田大学の前身・東京専門学校を創立し、初代総長となりました。

彼は同志社大学の創立者・新島襄と親しく、新島が同志社設立資金を集めている時に協力しています。

2人の強いきずなは、早稲田大学と同志社大学が「国内交換留学協定」を結んでいることからうかがえるでしょう。


政治活動に邁進するだけでなく、将来を担う人材の育成に尽力した大隈。

彼の創立した早稲田大学は、今でも多くの若者の憧れとして注目され続けています。

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