明治維新期に政治や外交で手腕を発揮した大隈重信(おおくま しげのぶ)。
国家主義者による爆弾テロで、右脚を失う悲劇に見舞われたことでも知られていますね。
今回は大隈の足が、今でも菩提寺の龍泰寺(りゅうたいじ)に保存されているという情報に迫ります。
また死因は暗殺によるものか確認し、国家主義集団「玄洋社」の元構成員による遭難事件をご紹介します。
大隈重信のプロフィール
本名:大隈重信(幼名:八太郎)
生年月日:1838年3月11日(天保9年2月16日)
死没:1922年1月10日
身長:推定180cm
出身地:肥前国佐賀城下会所小路(現在の佐賀県佐賀市水ヶ江町)
最終学歴:弘道館
大隈重信の足は今も龍泰寺にある?
大隈は1889年(明治22年)10月18日、国家主義団体「玄洋社」の元構成員による爆弾テロに遭難しました。
一命はとりとめますが、右脚を大腿下3分の1で切断するほどの重傷を負います。
彼は手術を受けたのち、アメリカの「A.A.マークス社」が製作した義足を装着して生活しました。
大隈重信候は右足を爆弾で吹き飛ばされても常に前向きだったらしい。義足も飾られていた。「失敗に挫けるな」と。 pic.twitter.com/2EPN0mkeo0
— Saga維新 (@h9Ovic9zUVzDOOV) February 25, 2017
「A.A.マークス社」は当時最高峰の技術を誇ったメーカーでした。
しかし日常的に正座する日本人の生活様式には合わず、何度も関節が破損してしまったようです。
ちなみに彼が義足の補助として杖をついていたことは、創立した早稲田大学にある銅像からもうかがえますね。
早稲田の大隈重信像
右足を右翼に爆弾で吹き飛ばされたから、杖をついているらしい…… pic.twitter.com/W079zxwTTc— でしょうか (@owPw97pSdEtkSWG) November 9, 2020
大隈は生涯、不便な思いをしながら生活していたのでしょう。
義足は彼の地元佐賀県にある「大隈重信記念館」で保管されており、一般人も見ることができます。
一方本物の足は、爆弾の傷跡が生々しく残っていたそうです。
当初は足をホルマリン漬けにした上で、大隈家が保管していました。
しかし保存液が高価なため、足は赤十字中央病院に寄贈されます。
その後、大隈が創立した早稲田大学へ送られ、樹脂加工を実施。
現在は佐賀市にある大隈家の菩提寺「龍泰寺」で保管されています。
大隈の切断された右足は、アルコール漬けにされ、大隈の自宅で保管されていた。その後、赤十字中央病院に寄贈され、赤十字社はホルマリン漬けにした。1998年早稲田大学へ返還され樹脂加工し、大隈の菩提寺である佐賀県の龍泰寺に移されて現在に至る。#日本史 #大隈重信#入試対策 #早稲田 pic.twitter.com/Q53aLn0Q5c
— 矢崎聖【歴史マン】日本史講師 (@Sei_Yazaki) September 18, 2019
本物の足は一般公開されていないため見ることはできませんが、丁重に扱われていることがわかりましたね。
大隈の足に対する人々の態度から、彼がどれだけ重要な人物であったかがうかがえます。
大隈重信の死因は暗殺?
大隈が暗殺で亡くなったと考える人は多いかもしれません。
彼は足を失った有名な遭難事件以後も、再び爆弾テロに遭っています。
1916年(大正5年)1月12日、当時首相だった大隈が乗った馬車に、8人のテロリストが爆弾を投げました。
幸い不発だったため、この時も一命をとりとめています。
ただこれだけ襲撃事件に遭っていると、大隈の死因が暗殺だったと考える人もいるでしょう。
しかし大隈は強運だったようで、テロに遭遇しても、命を落とすことはありませんでした。
実際の死因は腹部のがんと萎縮腎だったそうです。
いく度も九死に一生を得た彼は、1922年(大正11年)1月10日、早稲田の私邸で85年の生涯を閉じました。
日比谷公園で「国民葬」が営まれ、およそ30万人の市民が参列。
沿道に並んだ市民も数えると、100万人ほどが参列したと報じられました。
常に死の覚悟をしていた大隈ですが、畳の上から静かに旅立てたのは、幸運だったかもしれませんね。
玄洋社の元構成員による大隈重信遭難事件
有名な大隈重信遭難事件は、そもそもどのような経緯で起きたのでしょう。
事件は、国家主義団体「玄洋社」の一員だった来島恒喜(くるしま つねき)が、単独で行いました。
来島は外国人の任用を定める条約に反対し、条約を推進する大隈の暗殺を計画したのです。
玄洋社が事件を計画したと誤解されがちですが、実際には玄洋社を退社した来島による単独犯でした。
退社理由は、他の社員が共犯を疑われるのを避けるためだったとされています。
1889年(明治22年)10月18日に来島は、外務省から馬車で帰る途中の大隈を狙い、爆弾を投げました。
爆弾は馬車の中へ入り、大隈の足元で爆発。
直後に来島は短刀で喉を刺して自害しました。
結果的に大隈らが推進していた条約改正交渉は頓挫し、当時の黒田清隆内閣は総辞職に追い込まれるのです。
しかし大隈は義足となってからも、精力的に政治活動を続け、2度も内閣総理大臣を務めました。
足を失ってもなお、熱い志は失わなかった大人物といえるでしょう。
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