板垣退助、子孫の現在(2023)と家系図。日本人初のルイヴィトン&性格がわかるエピソード

自由民権運動の主導者として知られる板垣退助(いたがき たいすけ)。

暴漢に襲われた際に言ったとされる、「板垣死すとも自由は死せず」は有名ですね。

今回は板垣がどんな人物だったのか、具体的な情報を見ていきましょう。

まず子孫の現在を家系図から確認します。

さらに彼がルイヴィトンの商品を購入したという情報と、性格がわかる有名エピソードをご紹介します。

板垣退助のプロフィール

本名:板垣退助(幼名:猪之助)

生年月日:1837年5月21日(天保8年4月17日)

死没:1919年7月16日

身長:不明

出身地:土佐国高知城下中島町(現在の高知県高知市)

板垣退助、子孫の現在を家系図で確認

まず板垣の子孫の現在についてです。

2018年、東京の品川神社での板垣100回忌に、子孫がおよそ30人集まりました。


いずれも一般人で詳細な情報は不明ですが、今でも板垣の子孫が各地にいることがわかっています。

ただし彼らについては、さまざまな噂が流れているようです。

ネット上には「和歌山に板垣の子孫がいる」という書き込みが見られました。

さらにオリエンタルラジオの中田敦彦さんが板垣の子孫という情報もありましたが、真偽は不明です。

実際に板垣の子孫と判明しているのが、2018年に亡くなった法学者の杉崎光世(すぎさき みつよ)さん。

板垣のひ孫にあたり、家族法を専門とした法学者・フランス語学者として活躍しました。

曽祖父の100回忌に向けて、『板垣薨去百年とルーテル八幡教会百年』を執筆。

記念書籍の編纂に合わせて執筆していたものの、板垣100回忌の3か月前に、89歳で亡くなりました。

存命の子孫たちは100回忌の法要で、杉崎さんに対しても思いを馳せたことでしょう。

日本人で初めてルイヴィトンを購入

フランスの高級ブランド「ルイヴィトン」。

日本人で初めてルイヴィトンの商品を購入したのが、板垣でした。

以前までは、元土佐藩士の後藤象二郎が、初のルイヴィトン購入者とされてきました。

しかし最新の研究で、後藤より3週間早く、板垣が購入していたそうです。

板垣の功績を伝えてきた「板垣会」が、ルイヴィトンの日本支部に連絡。

そこからパリ本店に照会した結果、事実が判明しました。

板垣がルイヴィトンを購入したのは、1883年(明治15年)のパリでのこと。

1月に、同じ土佐藩出身の板垣と後藤は、パリ・スクリーブ通りのルイヴィトンを訪問したようです。

1883年1月30日の名簿に、後藤の名前が購入者として記録されていました。

そのため後藤が、日本人初のルイヴィトン購入者と伝えられてきたのです。

しかしそれ以前の1883年1月9日、「Itagaki」という人物が、シリアルナンバー「7720」のトランクを購入したと判明。

後藤は購入した商品の現物がありませんが、板垣のトランクは現物が残っているため、間違いない情報でしょう。

ただし、板垣と後藤より5年早く、パリのルイヴィトンを訪れた日本人が2人いるようです。

この2人は、薩摩藩出身の特命全権大使・鮫島尚信(さめしま なおのぶ)と、外交官の中野健明(なかの けんめい)とされています。


1878年(明治11年)、2人がルイヴィトンの商品を購入した記録が残っているようです。

ただし現物が確認されていないため、板垣が初のルイヴィトン購入者という説は浸透していきそうですね。

板垣退助の性格がわかるエピソード

板垣は非常に正義感が強く、優しい性格だったとされています。

ただし幼少期は毎日ケンカをして帰るほど、わんぱくな性格だったようです。

一方で、貧しい少女にはおにぎりと着物をあげるほど、思いやり深さも備えていました。

理不尽なことを許せず、正義感に駆り立てられた瞬間、ついケンカに走ってしまう少年だったのでしょう。

成人後も、優しさに満ちた性格は変わっていなかったようです。

中岡慎太郎が自分を暗殺しようとした際には、彼を説き伏せて友人となりました。

有名な「岐阜事件」では、遊説中の岐阜県で、相原尚褧(あいはら なおふみ)に襲われ重傷を負います。

しかし板垣が相原の助命を嘆願したおかげで、彼は極刑を免れ、無期懲役となったのです。


正義感にあふれ、寛大な心を忘れなかった板垣。

一流政治家にふさわしく、器の大きい人物だったといえますね。

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