武者小路実篤、邸跡は我孫子。農業への愛&野菜の絵。結婚観と孫の現在

『友情』や『愛と死』で知られる白樺派の作家・武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)。

農業共同体「新しき村」を創設した人物でもあります。

今回は安孫子にある武者小路実篤邸跡、農業への愛、野菜の絵、結婚観を見ていきましょう。

また孫の現在を確認します。

武者小路実篤のプロフィール

本名:武者小路実篤

生年月日:1885年5月12日

死没:1976年4月9日

身長:不明

出身地:東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)

最終学歴:東京帝国大学社会学中退(現在の東京大学)

武者小路実篤邸跡は我孫子

武者小路実篤が暮らした邸跡は、千葉県我孫子市にあります。

我孫子には、雑誌「白樺」の同人である志賀直哉や柳宗悦らが暮らしていました。

彼らと交流するため、武者小路も1916年(大正5年)から暮らし始めたそうです。


志賀や柳と思索を深める時間は、きっと有意義なひと時だったでしょう。

2年後には、宮崎県に階級競争のない理想郷「新しき村」を建設。

武者小路は我孫子で発会式を開催したのち、現地へ旅立つのです。

現在の邸跡は戦後に復元されたものですが、大正時代の建物を模して作られたため、当時の雰囲気を感じられるでしょう。

自然に囲まれたのどかな土地ですが、民家があるため、いつでも見学できるわけではありません。

ただ例年見学会が催され、文学ファンが多く訪れています。

 

見学会は邸内に「文豪の部屋」が再現され、「白樺派のカレー」や白樺派グッズが販売されるなど楽しいイベントのようです。

邸跡より気軽に楽しめる関連スポットは、「我孫子市白樺文学館」です。

武者小路や志賀、有島武郎など、白樺派の人々に関する常設展を誰でも楽しめます。

白樺派の文人が愛した土地の雰囲気を感じられる、おすすめスポットですね。

農業への愛

1918年(大正7年)、武者小路は同志と理想郷「新しき村」を、宮崎県児湯郡木城町に開村します。

1日6時間の義務労働以外は、何をしても構わず、食事と住まいは村が提供するというシステムでした。

しかし開村から21年後、ダム建設で土地が水没したため、多くの住民は移住を余儀なくされます。

結果的に彼らが、埼玉県に「新しき村」を建設し、今日まで続いているのです。

宮崎県に残ったのは、実篤の元妻・房子と、再婚相手の杉山正雄夫婦のみでした。

埼玉県の村に暮らしていた松田省吾さんは、杉山夫婦の生き方に共感し、25歳の時に宮崎県の村に移住。

共に自給自足しながら、夫婦が亡くなるまで、面倒を見たそうです。

以降は松田さんが中心となり、村を守っています。

2019年時点で宮崎県の「新しき村」には2世帯、埼玉県の「新しき村」には、6世帯が暮らしていました。

存続の危ぶまれる状況に見えますが、武者小路が志した農業での自給自足の精神は、脈々と受け継がれています。

今でも「新しき村」への移住を望む人は、多くいるようです。

農業と自然を愛した武者小路の精神は、末永く守られていくことでしょう。

野菜の絵

武者小路は野菜に美を見出し、40歳を過ぎてから野菜の絵を描き始めました。

南瓜や冬瓜、馬鈴薯などの油絵を数多く残しています。

元々絵を描くのは不得意でしたが、子供が生まれてから、絵筆を取り始めたのです。

最初はあまりに下手なため、嫌気がさしてしまったようですが、毎日描くうちに上達していきました。

やがて一刻も早く描きたい衝動を抑えられず、台所に行けばすぐ手に入る野菜を描くようになります。

「自然の造形物は、いくら見ても見飽きない。見ていると描きたくなる」と語りました。

武者小路は身近に存在する野菜に美を見出し、画家としても才能を開花させたのです。

武者小路実篤の結婚観とは?

武者小路は28歳の時に、竹尾房子と結婚しました。

しかし房子が「新しき村」の杉山正雄と同棲し始め、夫婦は離婚。

房子と杉山が結婚すると、武者小路は2人を養子にして、武者小路姓を名乗らせます。

文豪の寛大な人柄がうかがえるエピソードですね。

「結婚は早すぎても、遅すぎてもいけない」と語った武者小路。

「無理するのがいちばんいけない」と続け、愛し合う者同士が、自然に結びつくことの大切さを述べました。

好きでもない相手と無理に暮らすより、自然に愛し合えた時に結婚すればいい。

妻と再婚相手を養子に迎え入れるほど寛大でいられたのは、ドライな結婚観の持ち主だったからこそでしょう。

武者小路実篤の孫の現在

武者小路の孫は7人いましたが、2017年時点で3人がご存命と確認されています。

中でも有名な孫は、武者小路知行さん。

「調布市武者小路実篤記念館」理事長として、祖父に関する情報を発信し続けてきました。

8歳まで祖父と同居し、学生時代も交流を続けていたため、文豪の人柄を知り尽くしています。

武者小路は、「おじいちゃんはお相撲さんだった」と孫に嘘をつくなど、ユーモラスな人物だったそうです。

知行さんは、文豪をキャラクター化したゲーム『文豪アルケミスト』の谷口晃平プロデューサーとの対談に応じています。

武者小路をキャラクター化することに、「作家本人を知る人なら、苦言を呈する場合もある」と指摘しました。

しかし実篤記念館の来館者が年々高齢化していた中、ゲームによって「来館者が増えたのはありがたい」と語っています。

自分の祖父をキャラクター化されれば、誰でも戸惑うはず。

それでもゲームプロデューサーとの対談に踏み切った知行さんは、祖父譲りの寛大な人柄の持ち主なのでしょう。


優しさと寛大さ、ユーモアを備えていた武者小路。

共同体作りによって、理想を理想で終わらせなかった、稀有な人物だったのでしょう。

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