幕末から明治にかけて活躍した政治家の大久保利通(おおくぼ としみち)。
今回は大久保の死因と暗殺事件の詳細に迫ります。
併せて同じ薩摩藩出身の西郷隆盛との関係を確認し、大久保が具体的に何をした人か確認しましょう。
大久保利通のプロフィール
通称:大久保正助
生年月日:1830年9月26日(文政13年8月10日)
死没:1878年5月14日
身長:推定183cm
出身地:薩摩国(現在の鹿児島県)
最終学歴:造士館
大久保利通の死因、暗殺事件の経緯
まず大久保の死因、暗殺事件の詳細を確認します。
大久保は討幕運動のリーダー的存在であり、明治維新後は新政府の重鎮として活躍しました。
しかし強引な政治改革を行った彼は、多くの政敵を作ってしまいます。
1878年(明治11年)5月14日、当時内務卿だった大久保は、不平士族6人によって暗殺されました。
現在の東京都千代田区の紀尾井町で起きた暗殺事件は、「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」と呼ばれています。
清水谷 この辺りにて 大久保利通 😓
暗殺 紀尾井坂の変 pic.twitter.com/ojzOLfxjgm— たこぽん 🐙 (@takopon1120) December 12, 2018
事件当日、大久保は霞ヶ関の自宅から馬車で、明治天皇へ謁見するために赤坂仮皇居へ向かっていました。
6人の不平士族は馬車を襲撃、大久保を引きずり出し、彼を日本刀で刺し続けます。
大久保は頭部を含め、全身で計16か所の傷を負いました。
直接の死因は、首を貫通した一撃だったようです。
さらに頭を叩き割られ、肉や骨を断たれるという、あまりに無残な最期でした。
大久保利通像のトリビア。
大久保利通が暗殺された時、一緒にいた馬車夫と馬も殺されている。実はこの馬車夫と馬は小さくなって、大久保利通のかかと近くに設置されている。
小さすぎるのでよく注意して見るべし。 pic.twitter.com/P41j2E1tYP
— Ok Soogle (@vsoogle) September 7, 2019
実行犯の不平士族は、島田一郎、長連豪、脇田巧一、杉村文一、杉本乙菊、浅井寿篤の6人。
リーダーは加賀藩の足軽だった島田で、朝鮮を支配しようという主張「征韓論」に共鳴していました。
一方大久保は、征韓論に反対。
彼は岩倉使節団のメンバーとして欧米を視察しており、欧米諸国と日本の差を痛感していました。
そのため欧米諸国に介入されないよう、日本国内の近代化を優先させたため、征韓論に反対したのです。
不平士族たちは大久保への不満を募らせ、暗殺に及びました。
同じ薩摩藩の西郷隆盛との関係
大久保と同じ薩摩藩出身の西郷隆盛の存在が、暗殺事件に大きな影響を与えたとされています。
2人は同じ薩摩藩の下級藩士出身で、幼馴染みでした。
"詮議" 西郷隆盛や大久保利通らを輩出した鹿児島の郷中教育について調べていて初めてこの言葉を知りました📗
皆んなで意見を出して話し合う!
日本では自分の意見を出す風潮があまりないような気がしますが、特に薩摩藩ではこれを重視していたようです✨#いい表現 #zappa813 pic.twitter.com/2O1usea5uu— MASA@MASA's kitchen・フリーランス料理人 (@masa84676292) November 14, 2020
無二の親友だった2人は、かつて同志として明治維新に貢献。
しかし征韓論を巡って対立し始め、大久保は「明治六年政変」で、征韓派の西郷を失脚させるのです。
大久保は征韓より国内近代化を優先し、日本が欧米諸国につけ入れられないよう努めました。
同時にそれは、西郷との友情を封印することも意味したのです。
不平士族たちは、西郷を反乱のリーダーとして祭り上げました。
1877年(明治10年)、不平士族最大の反乱である西南戦争が勃発。
政府軍が勝利し、西郷は自刃します。
西郷に心酔していた島田たち征韓派は、大久保への恨みを募らせ、暗殺テロを実行したのです。
島田たちは知らなかったはずですが、大久保は最期まで西郷への友情を大切にしていました。
彼は暗殺された際、西郷からもらった2通の手紙を持っていたとされています。
1通は「王政復古の大号令」について、外国人に趣旨を誤解されないよう、きちんと説明を求める手紙でした。
もう1通は、「写真撮影はやめろ」という内容だったそうです。
写真嫌いだった西郷の性格を今日に伝えるエピソードですね。
大久保は西郷と対立してもなお、友情を完全に手放したくはなかったのでしょう。
暗殺犯たちが知る由もなかった、薩摩藩士たちのきずな。
激動の時代において、友情を封印せざるを得なかった大久保は、悲劇的な英雄といえるかもしれません。
大久保利通は何した人?
大久保のもっとも有名な功績は、藩を廃止し、県や府を設置する「廃藩置県」の断行でしょう。
現代人におなじみの「都道府県」は、大久保による「廃藩置県」がなければ、存在しなかったはずです。
逆にあまり知られていない功績の中には、東京大学農学部の前身「駒場農学校」の創立があります。
ドイツ農法を模範として、農業における近代化を推進しました。
大久保は岩倉使節団の一員として欧米を視察し、西欧諸国の制度こそ優れていると考えるようになります。
洋服を着用し、コーヒーとオートミールを朝食にするなど、普段の生活にも西洋の慣習を取り入れました。
彼が採用した西欧諸国の諸制度は、現代日本の礎を築いたのです。
大きな功績を残しながら、悲劇的な最期を遂げた大久保。
彼の生涯は西郷とのドラマチックな友情物語と共に、今後も多くの人々を魅了し続けるでしょう。
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