木戸孝允の死因。功績と長州藩への説得。大久保利通と真逆な性格エピソード

明治維新のリーダー的存在だった木戸孝允(きど たかよし)。

大久保利通、西郷隆盛と共に、「維新の三傑」と称され、倒幕運動と明治維新に貢献しました。

今回は木戸の死因、功績、長州藩に対して行った説得についてまとめます。

併せて大久保と性格が真逆だったという情報があるため、2人の性格がわかるエピソードを確認します。

木戸孝允のプロフィール

通称:桂小五郎

生年月日:1833年8月11日(天保4年6月26日)

死没:1877年5月26日

身長:174cm

出身地:長門国萩城下呉服町(現在の山口県萩市呉服町)

最終学歴:明倫館

木戸孝允の死因は?

まず木戸の死因を確認します。

従来、木戸は胃がんで亡くなったとされてきました。

しかし近年、「大腸がんの肝臓転移」を死因とする説も出てきています。


2020年7月、「木戸顧問容体」という題の診断書が、東京の古書店で発見されました。

1877年(明治10年)5月21日、明治天皇の侍医3人が連名で書いたものでした。

診断書には、肝臓の腫瘍が悪化していたことが記されていたそうです。

診断から5日後の26日、木戸は43歳で亡くなります。

天皇お付きの優秀な医師たちが、そろって「肝臓の腫瘍」に言及したのであれば、これが死因である可能性が高そうですね。

しかしお雇いドイツ人医師のウィルヘルム・シュルツが、「難治の胃病」と診断したため、胃がん説が広まりました。

2018年、『小説 木戸孝允』を執筆した内科医・中尾實信(なかお よしのぶ)さんは、木戸の最後の症状に注目。

膿うみが混在した血便や下痢の症状が出ていたことから、「大腸がんの肝臓転移」が死因と考えたそうです。

中尾さんは「肝臓と胃は近いため、触診で間違える可能性が高い」と語り、継続的に診察していた日本人医師の診断が正しいと推測。

これまでの通説が覆され、議論が深まることで、真実に辿り着ける日は近そうですね。

木戸孝允の功績まとめ。長州藩に対する説得

木戸の具体的な功績をまとめます。

最大の功績は1868年(慶応4年)、明治新政府の基本方針「五箇条の御誓文」を制定したことです。

江戸時代から続いてきた封建制度や身分秩序を否定し、旧来の悪習を断ち切ろうとしました。

明治天皇は御誓文を守ることを天地神明に宣誓。

天皇は、「特権階級だけでなく万民が公議へ参加し、自立した個人として生きる」ことを呼びかけます。

木戸は近代において国民1人ひとりが政治活動に参加できる基盤を作ったのです。

1869年(明治2年)に断行された「版籍奉還」にも、木戸は大きく貢献します。

版籍奉還は、これまで藩主が支配していた土地と籍を、天皇に返還するというもの。

木戸は元々長州藩士でしたが、版籍奉還に際して、周囲の長州藩士から反発されます。

長州藩士たちは、木戸ばかり中央で重用されていることに不満を抱いていたようです。

そればかりか、土地を天皇に返そうとする木戸に、「長州藩を軽視している」という批判が集まるのは当然でした。

木戸は故郷からの批判に折れることなく、当時の長州藩主・毛利敬親を説得し、版籍奉還を実行。

日本が封建制度を排除することで、欧米諸国と肩を並べられると考えていた彼にとって、版籍奉還は急務だったのです。


元長州藩士として、長州藩の人々が時代に取り残されないよう、彼らのため必死に説得を試みたのでしょう。

さらに木戸は、大久保利通や西郷隆盛らと共に、藩の代わりに県を置く「廃藩置県」について密議。

1871年(明治4年)、廃藩置県の詔が断行され、旧藩主は失職します。

代わりに県令が任命され、領主が土地を支配する封建制度は廃止されたのです。

日本における公平な身分制度を整えた、木戸の功績は大きいといえますね。

木戸孝允と大久保利通の真逆な性格がわかるエピソード

同じ「維新の三傑」に数えられる木戸と大久保利通。

2人の性格は真逆だったといわれています。

大久保は非常に生真面目な性格で、言動は理路整然としていました。

寡黙でいかにも厳格な大久保に、誰も意見できなかったそうです。

内務大臣の彼が登庁すると、靴音が聞こえただけで人々が静まり返ったといわれています。

威厳に満ちた彼の雰囲気がうかがえますね。

一方で木戸は、人当たりがよく、賑やかな人物だったようです。

人情味ある人物だったため、理性的な大久保よりは感情的な性格の持ち主だったのでしょう。

木戸は少しでも挫折すると、自宅に引きこもってしまうため、偉人らしからぬ人間味も備えていたようです。

対照的な性格の2人ですが、お互いの手腕を認め、尊敬し合っていました。

厳格な大久保に誰も意見できない中、木戸だけはストレートに意見を伝えられたのでしょう。

自分に意見できる貴重な人材だった木戸を、大久保は重宝していたに違いありません。

木戸は臨終の際、大久保に手を握られながら息を引き取りました。


2人は真逆な性格により、対立することもあったはずですが、常に信頼の念で結ばれていたのでしょう。

偉人たちの、熱くドラマチックな生涯は、今後も人々を惹きつけるに違いありませんね。

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