ジョン万次郎の逸話。功績をアメリカが評価。英語力は?鳥島漂着から帰国まで

漁船で遭難し、漂流中にアメリカの捕鯨船に救われ渡米したジョン万次郎(ジョン まんじろう)。

ドラマチックな人生を送った人物ですが、今回は彼の逸話をご紹介しましょう。

また功績がアメリカで評価されてきたという情報、英語力の高さ、鳥島漂着から日本へ帰国するまでの詳細をまとめます。

ジョン万次郎のプロフィール

愛称:ジョン・マン

本名:中浜万次郎

生年月日:1827年1月27日(文政10年1月1日)

死没:1898年11月12日

身長:不明

出身地:土佐高知藩知行中ノ浜村(現在の高知県土佐清水市中浜)

ジョン万次郎の逸話。日本人初の行動が多数

万次郎の人柄がうかがえるユニークな逸話は多数残っています。

彼は常に謙虚で、困窮している人には施しを行ったといわれてきました。


『鮭』で知られる画家・高橋由一が無名だった頃、万次郎が彼のために救助金を募ったという逸話もあります。

万次郎は元々、貧しい漁師だったため、苦労している人々には当事者目線で寄り添うことができたのでしょう。

また日本人で初めてネクタイを身につけた人物という逸話や、初めて鉄道に乗った人物という話も伝えられてきました。

さらに日本人としては初めて、ゴールドラッシュ時代のアメリカで、金の採掘を行ったともいわれています。

また常に最新鋭の武器であるピストルと仕込み杖を携帯し、刺客の襲撃に備えていたそうです。

彼が外国の最新技術をいち早く取り入れ、日常的に活用していたことがうかがえますね。

鎖国時代に渡米した人物のため、彼のアメリカ式の行動が、都度「日本人初」として認定されてきたのでしょう。

功績はアメリカで高評価

万次郎の功績は、日本よりもアメリカから高く評価されてきたようです。

アメリカ建国200年の際に開催された「海外からの米国訪問者展」では、29人の偉大なアメリカ訪問者を紹介。

その中に、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズらと共に、万次郎が選出されました。

なぜ万次郎は、アメリカでこれほど高く評価されているのでしょうか。

彼は漂流中に救ってくれたウィリアム・ホイットフィールド船長の故郷マサチューセッツで、船長の養子になりました。

マサチューセッツでは英語や数学、航海術や測量を猛勉強。

さらに民主主義や男女平等などの先進的な考え方も学びました。

帰国後はアメリカでの知識を武器に、土佐藩教授館の教師となります。

黒船が来航すると、幕府から幕臣として召集され、翻訳や造船指揮として活躍。

1860年(万延元年)には、遣米使節団のメンバーとなり、咸臨丸に乗船します。

船酔いにより指揮できなかった勝海舟に代わって、嵐の中での航海を成し遂げました。

先進的な考えを持つ万次郎は、日本の開国を推し進めたのです。

開国で利益を得たアメリカから、「日本を開国させた偉人」として高く評価されているのは当然ですね。

ジョン万次郎の英語力。会話は得意でも文法は苦手

万次郎は日本語が一切通じないアメリカ生活の中で、猛勉強して英語を習得しました。

しかしあくまで会話の勉強をしただけであり、正規の教育は受けていません。

そのため英会話や正しい発音はできましたが、英文法は苦手だったのです。

つまり英語を翻訳するのは不得意だったため、翻訳家としてはあまり活躍できなかったようです。

明治維新後は教養ある人々が次々活躍し始めたため、教育を受けていない万次郎は活躍の場を奪われます。

結果的に日本での彼に対する評価は、低くなってしまったのでしょう。

晩年は、長男で医者の東一郎の庇護下で暮らしていたため、英語に触れる機会もありませんでした。

アメリカの友人が訪れても、ほとんど会話できなくなっていたそうです。


前半生がドラマチックだった分、後半生はあまり活躍できず、静かに余生を送らざるを得なかったようです。

彼の豊かな体験と知見のことを考えると、ややもったいない話ですね。

鳥島漂着から帰国まで

万次郎が漂着し、渡米したのち帰国するまでの、具体的な流れを知らない人も多いでしょう。

1841年1月27日(天保12年1月5日)、万次郎は漁船に炊事係として乗船していました。

ほかのメンバーは、船頭の筆之丞、彼の弟・重助と五右衛門、櫓係の寅右衛門です。

彼らは南東の沖合で突然の強風に襲われ、漂流したのち、伊豆諸島にあった無人島・鳥島に漂着。

溜水と海藻などで飢えをしのぎ、143日間を過ごします。

その後、捕鯨船ジョン・ハウランド号の乗組員が彼らを発見したため、救助されます。

しかし日本は鎖国していたため、やむなく帰国を断念し、アメリカへ向かいました。

万次郎以外の4人はハワイのホノルルで降り、そこで生活を送ることになります。

ホイットフィールド船長に気に入られた万次郎は捕鯨船員となり、アメリカを目指しました。

乗組員たちから「ジョン・マン」と呼ばれた万次郎は、彼らと交流を深めたのち、マサチューセッツに帰港。

現地では先進的な考えを学ぶと同時に、人種差別も受け、多くの知見を養いました。

1851年(嘉永4年)、アドベンチャー号で琉球に上陸したのち、薩摩本土へ送られます。

鎖国中の日本へ帰国を果たした万次郎は、薩摩と長崎で長期にわたる取り調べを受けました。

ようやく1年半後、漂流から11年目に、故郷の土佐で家族と再会するのです。


万次郎の数奇な生涯を辿ると、まるで冒険小説を読んでいるかのような楽しい気分になりますね。

彼の生涯と功績から、日本とアメリカのきずなを再認識することが、異文化衝突を避ける第一歩になるかもしれません。

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