青色発光ダイオード(LED)の開発により、2014年にノーベル物理学賞を受賞した赤崎勇(あかさき いさむ)さん。
2021年4月1日、肺炎により92年の生涯を終えました。
今回は赤崎さんがどのような人生を送ってきたのか見ていきましょう。
家族、兄弟の情報を確認し、経歴をまとめます。
併せて名城大学終身教授としての活動と、鹿児島県にある出身高校について確認します。
赤崎勇のプロフィール
本名:赤﨑勇
生年月日:1929年1月30日
死没:2021年4月1日
身長:不明
出身地:鹿児島県南九州市
最終学歴:京都大学理学部化学科
赤崎勇の家族
まず赤崎さんの家族について見ていきます。
赤崎さんの妻は陵子さんという女性です。
夫がノーベル賞を授与された際は、共に授賞式へ出席しました。
ただ陵子さん以外の家族の姿が確認できなかったため、どうやら夫婦に子供はいなかったようです。
青い光に魅せられて 青色LED開発物語/赤崎勇
青色LED開発者、赤崎勇先生の研究人生を語る一冊。
誰もが諦めた物質の可能性を信じ、研究を続けた強さ。信念を貫く大切さを教えてくれた。
また人をとても大事にされる方で、昔偶然出会った人との関係が今も続いていたり。
こんな人になりたい。#読了 pic.twitter.com/DQFReKTlaI— よよ (@yoyo__chem) March 14, 2019
彼女は長年、研究一筋だった夫のためにあらゆる家事をこなし、彼を陰で支え続けました。
頑固で信念を貫き通す性分だった夫を、あたたかく見守ってきた良妻といえますすね。
夫がノーベル賞を受賞してからも、相変わらず毎日学校へ勤めに通う彼のために、「私が力になりたい」と語っていました。
ノーベル賞受賞には、生活を支えてくれる良き伴侶が不可欠なのかもしれませんね。
兄弟も研究者
赤崎さんの兄は、工学博士の赤崎正則さん。
1927年生まれで、95歳を迎える2023年現在もご健在のようです。
九州大学大学院を修了後、同大の助手に就任。
助教授に就任後の1961年、工学博士号を授与されました。
1967年には教授に昇任し、1979年に総合理工学研究科教授へ転任。
総合理工学研究科長を務めたのち、1990年に九州大学を退官し、名誉教授となりました。
退官後は複数の大学に勤め、1994年からは福岡工業大学の学長を務めています。
赤崎兄弟はいずれも、理工系分野の世界で大いに活躍していたことがわかりましたね。
赤崎勇の経歴まとめ
赤崎さんは鹿児島県南九州市に生まれ、父親からは「好きなことをやれ」と言われながら育ちました。
父の言葉を胸に、自身の好きな専門分野をとことん極める習慣を身につけたのでしょう。
ノーベル物理学賞を受賞した、赤﨑勇教授の言葉。 pic.twitter.com/luu2fBaXMm
— KABIGON🗽TOEIC365の歴女🗼 (@bigabiga1549) February 24, 2020
京都大学を卒業後は大学院へ進学せず、神戸工業(現在のデンソーテン)に入社し、ブラウン管開発を担当。
日本のテレビ文化の幕開けに貢献しました。
その後は招聘された松下電器の研究所を経て、1981年に名古屋大学の教授へ就任。
80年代は、窒化ガリウムの研究に邁進し、青い光を出す結晶を作り出します。
結果的に20世紀中の開発は難しいとされていた、青色LEDの開発に成功するのです。
その後は赤・緑も含む、光の3原色のLEDが完成。
フルカラーのディスプレイやDVD・ブルーレイディスクの開発にも大きく貢献しました。
業績が認められた赤崎さんは、共同研究者の天野浩さん、青色LEDの開発に尽力した中村修二さんと共にノーベル物理学賞を受賞。
LEDは情報化社会に欠かせない技術であることからも、彼らが成し遂げた研究の重要性がうかがえますね。
赤崎勇は名城大学終身教授
赤崎さんは1992年、名古屋大学を定年退官すると同時に、名城大学理工学部の教授となります。
以降は最先端エレクトロニクス・プロジェクトのリーダーとして、重要な研究開発を成功させてきました。
理工学研究科では特別栄誉終身教授として、多くの教え子を育成。
赤﨑勇センセイプッシュが物凄い名城大学の広告 pic.twitter.com/D6WmYDjkym
— MbkP(ばかいち) (@bakaichisagami) November 9, 2019
ノーベル賞受賞の際、ストックホルムに同行した教え子の岩谷素顕さんや上山智さんは、いずれも名城大学で教授に就任しました。
研究開発分野で多大な足跡を残した赤崎さんの背中を、次世代の優秀な研究者たちは追いかけ続けるのでしょう。
出身高校は鹿児島に
赤崎さんの出身高校は、鹿児島県立甲南高等学校です。
彼が在学していた時期は、まだ同校が旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校だった頃でした。
甲南高等学校の偏差値は70で、鹿児島県内ではトップクラスの難関校。
同校には卒業生である赤崎さんの偉業を讃える記念碑と、展示コーナーが設置されています。
赤崎さんは2015年の帰郷時、記念碑の除幕式へ出席したそうです。
偉大な卒業生の存在は、在校生にとって大きな刺激になっているでしょう。
赤崎さんは2020年末から体調を崩し、名古屋市内の病院に入院しました。
病室では、母校の記念碑の写真を眺めていたそうです。
故郷である鹿児島県へ帰りたがっていましたが、願いはかなわず、2021年4月1日に肺炎で亡くなりました。
甲南高等学校の生徒たちは、大先輩に思いを馳せながら、今日も勉学に励んでいるはず。
赤崎さんは天国から若者たちを見守り、エールを送っていることでしょう。
中村修二の現在。アメリカ国籍を取得。妻との離婚、再婚と家族。生い立ちの逸話
コメント