山下清のおにぎり好きとセリフは嘘?リュック、タンクトップは誇張。弥生軒での勤務

「裸の大将」として有名な画家の山下清(やました きよし)。

ドラマや映画によって、おにぎりが好きで、独特な話し方をするイメージが定着してきましたね。

山下は本当におにぎりが好きだったのでしょうか。

また有名なセリフとセリフ回し、リュックとタンクトップのいでたちの真相に迫ります。

併せてそば屋「弥生軒」で勤務していたという情報も確認します。

山下清のプロフィール

本名:山下清

生年月日:1922年3月10日

死没:1971年7月12日

身長:不明

出身地:東京都台東区日本堤

最終学歴:八幡学園

山下清はおにぎりより、お寿司やかつ丼好き

山下といえば、旅先でおにぎりを食べているイメージが強いですね。

1980年から17年間放送されたドラマ『裸の大将放浪記』は、芦屋雁之助さん演じる山下が、方々を旅する物語でした。

彼が旅先の人々からおにぎりをもらい、最後は絵を残して、有名画家であることを明かすのがお決まりの展開です。


白いご飯に海苔が巻かれたおにぎりが定番でしたが、焼きおにぎりの回もありました。

67話「和歌山風 清の焼きおにぎり!」では、舞台となった醤油工場の醤油を使った焼きおにぎりが登場。

棒におにぎりを刺し、焼いて食べるという回でした。

同作ではあらゆる形でおにぎりが登場したため、「山下といえばおにぎり」というイメージがお茶の間で定着したのです。

しかし実際の山下は、そこまでおにぎりにこだわりがありませんでした。

甥の山下浩さんは、確かに山下はおにぎりが好きだったものの、「何よりも好き」というほどではなかったと証言。

「おにぎりも好きだったが、もし目の前におにぎりとお寿司があったら、お寿司を選んだだろう」と語っています。

お寿司のほかには、かつ丼やすき焼きが好きだったそうです。

マスコミやファンとしては、山下が「何よりおにぎり好き」だった方が、イメージに合っていて嬉しかったはず。

しかし実際はごく普通の男性らしい好みだったのです。

有名などもりは事実。セリフ回しは誇張

ドラマや映画で描かれた山下のイメージを覆すような事実が、いくつも明らかになっています。

フィクションにおける山下最大の特徴は「どもり」。

「ぼ、ぼ、ぼくはおにぎりが好きなんだな」という独特なセリフ回しで表現されてきました。

どもりの原因は、3歳のときに患った重い消化不良の後遺症でした。

後遺症によって言語と知能にも軽度の障害が出たため、障害児の福祉施設へ入所するのです。

しかし家族によれば、多少のどもりはあるものの、至って普通に会話していたといいます。

重病を患ったことを考えれば、幸運にも後遺症は軽かったようですね。

彼のどもりは、ドラマや映画で面白おかしいセリフ回しによって表現されてきました。

本人や家族としては、多くの人に愛されて嬉しい反面、馬鹿にされているようで複雑な気持ちになっていたかもしれません。

ただ「死んだことのない人が、死んだ人のことがわかるかな」など山下の味わい深い有名セリフは、多くの人を励ましてきました。

人々は彼のどもりを馬鹿にしておらず、むしろ彼の言葉から多くの人生哲学を学んできたのです。

リュックとタンクトップのいでたちは誇張

タンクトップにリュックを背負った山下の姿は、世代を超えて愛されてきました。

しかし実際の山下は、かなり服装に気を遣っていたそうです。

旅先ではラフな格好をしていたものの、有名になってからはそれなりに整った身なりをしていました。

意外にも着物がよく似合う、ダンディで渋い男性だったそうです。

親しみやすいキャラクター化されたイメージとは、ややかけ離れた人物だったようですね。

ただ放浪癖があったのは事実で、彼が旅行の際に使っていたリュックは今なお保存されています。

全国各地の展覧会で、定期的に展示されているようでした。

主人が亡くなってもなお、リュックは旅を続けていたというのは、ロマンチックな話ですね。

我孫子のそば屋・弥生軒で勤務。元々は駅弁屋で掛け絵も担当

千葉県我孫子市にある立ち食いそば屋「弥生軒」。

山下は1942年から5年間、ここで勤務していました。

当時の弥生軒は駅弁屋として我孫子駅で運営していたそうです。

山下は障害児入所施設「八幡学園」を、18歳のときに脱走しました。

放浪癖があったため、決まった場所に収容される生活は耐え難かったのでしょう。

2年後には徴兵検査を逃れるために放浪し、我孫子駅の弥生軒にたどり着いて、住み込みで働いていたそうです。

以降は半年ごとに放浪し、我孫子市に戻るという生活をくり返したといいます。

山下は画家として有名になったのち、弥生軒から四季をテーマとした駅弁包装紙の制作を依頼されました。

弥生軒側も、「山下画伯が働いた店」としての誇りを持っており、ぜひ彼に絵を依頼したかったのでしょう。


山下はお世話になった店のために包装紙の制作を引き受けました。

しかし四季がテーマの4種類の包装紙は、完成しなかったのです。

山下は「冬」がテーマの包装紙を仕上げることなく、脳出血により49歳で亡くなりました。

包装紙は完成しなかったものの、今なお弥生軒では、山下による掛け紙が使用されています。

山下が働いた店として地元民や観光客から愛されてきた弥生軒。

名物の唐揚げそばは、唐揚げが2個も乗っているボリューミーな一品です。

我孫子を訪れた人は、ぜひ山下に思いを馳せながら、そばの味を堪能してみてください。

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