高い剣術の腕を持ち、「人斬り以蔵」として知られてきた、土佐勤王党の岡田以蔵(おかだ いぞう)。
小説やドラマに度々登場する人物ですが、実際はどんな最期の瞬間を迎えたのでしょうか。
また彼の子孫と家紋についても見ていきます。
さらに「幕末の四大人斬り」に数えられたほどの剣術の強さと、京都に残る刀傷をご紹介します。
岡田以蔵のプロフィール
本名:岡田宜振
生年月日:1838年2月14日(天保9年1月20日)
死没:1865年7月3日(慶応元年閏5月11日)
身長:不明
出身地:土佐国香美郡岩村(現在の高知県南国市)
岡田以蔵の悲惨な最期。近年は人気上昇中
土佐勤王党に参加し、数々の暗殺に関与した以蔵。
土佐勤王党に対する弾圧が強まり逮捕され、最期は処刑されました。
2010年の大河ドラマ『龍馬伝』では、佐藤健さんが以蔵を演じましたね。
佐藤健くん。
大河ドラマ「龍馬伝」の岡田以蔵役が強烈だったな〜。やっぱり鋭い目が印象的で、それ以来大注目の俳優さん♡福山雅治を始め豪華なキャストで、「龍馬伝」よく見てたわ。http://t.co/Z3NRe3vBrp#佐藤健 pic.twitter.com/HbFAsPH2j7— すず (@rinrinharan) October 5, 2015
佐藤さんの以蔵は、拷問を受けてもなお、仲間の情報を漏らさない立派な人物でした。
二枚目俳優ならではの色気も醸し出しており、「悲劇的な人物」という印象が定着したかもしれませんね。
色々あるんだけど、やっぱ以蔵かな。佐藤健って他の若手と違うなって思った演技だった。#大河ドラマで印象に残っている死 pic.twitter.com/VAhCZ7TJ6D
— 大島ルチア (@ruchia1125) May 29, 2019
しかし実際の以蔵は拷問に屈し、かかわった暗殺事件について、情報を漏らしてしまいました。
彼が口を割ったため、土佐勤王党員の多くが逮捕されます。
土佐勤王党員はこれ以上の被害を防ぐため、以蔵の毒殺を企てるほどでした。
結局、毒殺は岡田家の親族から反対され、未遂に終わったようです。
1865年(慶応元)7月3日、以蔵は斬首され、28年の生涯を終えました。
辞世の句は以下です。
「君がため 尽くす心は水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」
土佐勤王党を率いた武市半平太を「君」として詠んだようですが、真意は不明。
以蔵は人を斬る能力こそ高かったものの、知能は低く、武市はじめ周囲の人々から見下されていたそうです。
口を割り、仲間を売ったイメージが定着したため、現代でもあまり人気はありませんでした。
しかし『龍馬伝』以降は徐々にイメージアップし、ビデオゲーム「Fate/Grand Order」にもかっこいいキャラクターとして登場。
高い剣術能力を持ちながら、武市に対するコンプレックスを抱くという、ニヒルで魅力的なイメージが高まっているようです。
現代に即した以蔵像が確立され始めた結果、悲惨な最期も含め、人気が高まりつつあるのでしょう。
岡田以蔵の直系子孫はおらず、弟の子孫が健在
以蔵は生涯結婚しておらず、子供はいませんでした。
そのため彼の直系子孫はいないものの、弟・啓吉の子孫が健在のようです。
啓吉の子孫は高知県香美市土佐山田町に住んでいるようですが、一般人のため職業や経歴は公表されていません。
わかっているのは、以蔵が所有していたというフランス製のリボルバーが、自宅に伝わっていたことです。
「高知県立坂本龍馬記念館」の説明によると、リボルバーは勝海舟から贈られた品とのことでした。
以蔵は海舟の門下生であり、護衛として師匠を守ったことがあります。
海舟は以蔵が簡単に人を殺すことに注意を促しつつ、護衛としての腕を認め、リボルバーをプレゼントしたそうです。
以蔵の直系子孫こそ存在しませんでしたが、その生きた証は今日まで伝わっているとわかりましたね。
岡田以蔵の家紋は丸に並び杵
岡田家の家紋は、「丸に並び杵」です。
とうらぶはこういうところが流石ですね。
坂本龍馬家紋 組み合わせ角に桔梗
岡田以蔵家紋 丸に並び杵(杵紋) pic.twitter.com/S1SQTKKIgm— 刀剣・日本刀 鋼月堂 (@kougetsudo) April 25, 2019
その名の通り、丸の中に杵が2つ並んでいるユニークな家紋ですね。
杵は餅をつく際に使用する、祝い事に欠かせない道具です。
縁起の良い雰囲気の家紋といえるでしょう。
ちなみに杵だけでなく、餅そのものを描いた家紋もあります。
白や黒の丸で餅菓子を表しており、島津家の家紋には、割りやすいよう餅の表面につけられた十字も確認できます。
島津家の家紋は
蒸し餅(今でいう蒸しパン)が由来です。平安時代から武家が愛した
祝い菓子で
割りやすいように
上に十字が入れてありました pic.twitter.com/OL18dkeDm4— KFC(喧嘩ゲイ骨法ファンクラブ) (@kobayaichi4141) March 12, 2021
杵や餅を家紋として使うとは、なかなか面白い発想ですね。
岡田以蔵の剣術の強さ。京都木屋町通の刀傷
司馬遼太郎の小説によって浸透した「人斬り以蔵」の名からうかがえる通り、以蔵は剣術に長けていたとされます。
江戸の「桃井春蔵道場」で剣術修行に励み、武市半平太の土佐勤王党に参加。
非常に強かった以蔵は、「天誅」と称して次々と暗殺を行いました。
「天誅」という響きはかっこいいですが、実態はテロリストにほかなりません。
以蔵は吉田東洋暗殺事件を捜査していた井上佐市郎、志士弾圧を行った宇郷重国などを暗殺したとされています。
1862年(文久2年)10月13日には、尊王攘夷運動の急進派だった志士・本間精一郎を襲いました。
本間遭難の地である京都の木屋町通には石碑が建っており、路地には今も刀傷が残っています。
2023年現在は路地の中まで入れないため、観光客は刀傷を確認できません。
これまでに刀傷を見たことのある人は、生々しい暗殺の痕跡をしっかり写真に収めていました。
京都、木屋町四条上る「本間精一郎遭難之地」、尊攘派浪士の中心的存在、文久2年(1862)、享年29歳。暗殺を命じたのは、武市半平太、実行は岡田以蔵、薩摩の田中新平衛ら8名、以蔵が「人斬り以蔵」として名を馳せる事件。石碑の右手路地に残る刀疵。(今はもう閉められ、中に入ることはできません) pic.twitter.com/q1f8jTMCfv
— 高橋美智子 (@michiko59818588) June 21, 2019
本間精一郎遭難之地、、岡田以蔵刀疵、、今はもう路地の中まで入れませんが、よく触りに行ったものでした。 pic.twitter.com/Redl44TEfa
— 高橋美智子 (@michiko59818588) November 5, 2020
木の柱の中央部分が、えぐり取られるように欠けていますね。
本間は弁舌に長けた人物でしたが、酒に溺れて以来、粗野な面をむき出しにしていました。
徐々に仲間内から嫌われた結果、以蔵や薩摩藩の田中新兵衛ら8人に襲われ、命を落としたのです。
刀傷をつけた人物は、もしかすると以蔵だったのかもしれませんね。
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