高杉晋作、子孫と生家。家紋の誇り。妻、息子との関係とは

奇兵隊を創設し、倒幕に向けて活躍した長州藩士の高杉晋作(たかすぎ しんさく)。

大政奉還を見ることなく、27歳の若さで肺結核により世を去りました。

若くして亡くなってしまいましたが、子孫は続いているのでしょうか。

今回は晋作の子孫、生家と家紋の詳細を見ていきます。

併せて妻と息子について確認します。

高杉晋作のプロフィール

本名:高杉春風(たかすぎ はるかぜ)

生年月日:1839年9月27日(天保10年8月20日)

死没:1867年5月17日(慶應3年4月14日)

身長:158cm

出身地:長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)

最終学歴:松下村塾(昌平坂学問所や大橋塾でも勉学に励む)

高杉晋作、子孫の今

まず晋作の子孫を確認します。

2023年現在の高杉家当主は、高杉力(たかすぎ つとむ)さんです。

晋作の玄孫にあたり、2013年には晋作の遺品を、山口県の萩市と下関市に寄贈しました。

産着や愛用した三味線を含む貴重な遺品を見られるようになったため、多くの晋作ファンは歓喜したことでしょう。

ただし遺品寄贈までの道のりは、苦難の連続でした。

2010年、晋作の墓がある「東行庵」が、遺品返還を求め高杉家を提訴したのです。

晋作のひ孫で、力さんの父にあたる高杉勝さんは、裁判中に77歳で亡くなってしまいます。

勝さんは長年勤めた大成建設を退職後、下田開国博物館で遺品管理に従事していたそうです。

いきなり遺品返還を目的に提訴され、きっと怒りに燃えていたに違いありません。

裁判中に亡くなった父の活動を、力さんが引き継ぎました。

そして2013年1月、最高裁は東行庵の上告を棄却、高杉家は遺品の所有権を獲得したのです。

晴れて裁判を勝ち抜いた高杉家の人々は、ゆかりの地である萩市と下関市に遺品を寄贈。

晋作の生涯を感じさせる数々の遺品が公開されたのは、子孫たちによる努力のおかげだったのです。

高杉晋作の生家

晋作の生家は山口県萩市南古萩町にあり、「高杉晋作旧宅」として不定期公開されています。

萩城下にある菊屋横丁沿いに建っており、平屋建ての家や句碑が保存管理されています。

個人所有のため、常に見学できるわけではありませんが、彼の写真や書など貴重資料を閲覧できる観光スポットです。

家の中には入れないものの、土間は見学可能なため、武家らしい漆喰仕上げの壁を確認することができます。

200石の中級萩藩士・高杉小忠太の長男として生まれた晋作。

産湯に使った井戸も保存されており、幕末の志士の息吹を感じられるでしょう。

高杉家の家紋は武田家の紋

高杉家は大名・毛利家に仕え、要職に就いた名家でした。

家紋は「丸に四つ割菱」。

四つ割菱は、武田信玄で有名な武田家の紋ですね。

高杉家の先祖は、武田家の流れを汲む「安芸武田氏」の一族だったそうです。

そのため武田家にあやかって、四つ割菱を使用したのでしょう。

2013年に山口県へ寄贈された晋作の産着にも、家紋が施されていたとのこと。

晋作は武田家の偉大なDNAを継いでいることを、生涯誇りに思っていたのでしょう。

高杉晋作の妻・雅

晋作の妻は、高杉雅という女性でした。

500石の長州藩士・井上平右衛門の次女で、200石の高杉家よりも高禄の家柄出身です。

萩で評判の美人だったため、多くの縁談が持ち上がりました。

大河ドラマでも、1977年の『花神』では岡江久美子さん、2015年の『花燃ゆ』では黒島結菜さんら美人女優が演じています。

一説では嫁ぎ先を決めかねた父が、娘にくじを引かせた結果、晋作を引き当てたともいわれています。

1860年(安政7年) 、21歳の晋作と、16歳の雅は結婚。

しかし激動の時代に志士として活動していた晋作は、初夜の翌日には「丙辰丸」で江戸へ航海に出てしまいました。

およそ6年の結婚生活のうち、2人が共に暮らした期間はおよそ1年半だったそうです。


のちに雅は亡夫について証言を求められますが、過ごした期間があまりに少なく、「話せるほどの記憶がない」と語っています。

ほとんど家に帰らなかった晋作には、愛妾・おうのがいました。

それでも妻には、愛情深い手紙や土産を各地から送っていたそうです。

晋作は感情の起伏が激しかったものの、雅に対しては優しく接していたといいます。

彼は家を留守にし、愛妾まで作ったことに、多少の後ろめたさを感じていたのでしょう。

手紙や土産によって、雅に対してせめてもの償いをしようとしたのかもしれません。

高杉晋作の息子は外交官に

ほとんど家を空けていた晋作ですが、1864年(元治元年)10月5日に、唯一の子供・梅之進をもうけています。

晋作が亡くなったとき、梅之進はわずか満2歳でしたが、唯一の嫡男だったため幼くして家督を継ぎました。

「高杉東一」と名乗り、商法講習所(現在の一橋大学)を卒業後は外交官となります。

ホノルルやウィーンで活躍し、さらに『英和新国民大辞典』の編纂にも携わりました。

また妻・茂との間に、2男2女をもうけ、高杉家を存続させています。

明治政府から父の功績を讃えて爵位の授与を打診された際は、「親の七光りによる授与なら不要」と断ったそうです。

惜しくも48歳で亡くなりましたが、長生きしていればより大きな業績を残したことでしょう。


夫と息子に先立たれた雅は、寂しさを感じながら過ごし、78歳で亡くなりました。

今ではようやく親子3人が、再会しているのでしょう。

天国で晋作は、優秀な息子に称賛の言葉をかけているかもしれませんね。

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