中岡慎太郎の子孫と生家。家系図に劇団ひとり。妻は兼、笑顔の写真と性格

坂本龍馬と共に新しい国づくりを推進した、陸援隊の隊長・中岡慎太郎(なかおか しんたろう)。

志半ばで暗殺されてしまいましたが、子孫は残していたのでしょうか。

今回は知られざる中岡の子孫と生家、妻の詳細を確認しましょう。

併せて笑顔が印象的な写真が撮られた背景、気になる性格に迫ります。

中岡慎太郎のプロフィール

通称:中岡福太郎

生年月日:1838年5月6日 (天保9年4月13日)

死没:1867年12月12日(慶応3年11月17日)

身長:推定約153cm

出身地:土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)

中岡慎太郎の直系子孫はいないものの、家系図に劇団ひとり

慶応3年(1867年)11月15日、中岡は坂本龍馬と近江屋で会談中、刺客に襲われました。

龍馬は即死し、中岡は重傷を負った結果、2日後に亡くなります。

わずか29歳だった彼に子供はいなかったため、直系の子孫は途絶えてしまいました。

代わりに姉の息子・中岡照行が養子となって中岡家を継いでいます。

さらに姉の夫で尊王攘夷運動家だった川島総次の来孫にあたるのが、お笑い芸人の劇団ひとりさんでした。

劇団ひとりさんと中岡に直接的な関係はないものの、同じ家系図に意外な人物同士がいることがわかりましたね。

中岡慎太郎の生家跡は高知の観光スポット

中岡は高知県安芸郡北川柏木で誕生しました。

当時の建物は現存していないものの、昭和42年(1967年)、跡地に生家が復元されます。

復元は見取り図を元に行われ、中岡の命日である11月17日に公開されたそうです。

家は村の大庄屋だったため、勘定の間のほか、式台や客間など庄屋らしいスペースや道具があります。

裏には中岡が木登りしたというナツメの木の切り株があるため、彼の幼少期に思いを馳せられるでしょう。

付近には彼の遺髪が埋葬されている松林寺や、「北川村立中岡慎太郎館」もあります。

中岡ファンであれば、一度はじっくり散策してみたい観光スポットですね。

妻は兼。過ごした期間は短いものの最後まで「中岡姓」

中岡は安政4年(1857年)、野友村庄屋・利岡彦次郎の長女・兼と結婚しました。

夫は19歳、妻は15歳だったため、現在(2023)の感覚で考えるとまだ子供同士の結婚ですね。

中岡は結婚から4年後には、武市半平太が結成した土佐勤皇党に所属し、志士活動を本格化させていきます。

ゆっくり妻と過ごす余裕はなかったのでしょう。

その後、彼は妻に「高知へ行く」と言い残し、土佐藩を脱藩して長州藩へ渡っています。

夫婦はわずか3~4年で別れ、二度と会うことはありませんでした。

兼について詳しい資料は残っていませんが、夫のことを思いやりながら、寂しい思いをしていたはずです。

彼女は夫の死後も「中岡兼」と名乗り、57歳で亡くなったといいます。

熱く短い人生を終えた夫のことを、生涯思い続けたのでしょう。

中岡慎太郎、笑顔の理由は隣の芸者

中岡が満面の笑みで写っている肖像写真をご存じの人は多いでしょう。

志士の肖像写真といえば、口を真一文字に結び、厳格そうな表情をしているイメージが強いですね。

彼らは自分の英雄らしいイメージを後世に残すために、なるべく厳格な表情を作っていたのかもしれません。

また当時の撮影技術では、写真1枚を撮るのにかなり時間を要したため、辛抱強くレンズを見据える必要もあったのでしょう。

ではなぜ中岡は、いかにも楽しそうに笑いながらレンズに顔を向けていたのでしょうか。

実はこの写真は祇園で撮影されており、彼の隣には芸者が座っていたそうです。

よく見ると、彼の傍らに女性用着物の袖が写り込んでいます。

しかも一見彼が頬杖をついているように見えますが、腕も隣にいる女性のものでした。


つまり女性に頬を撫でてもらい、表情がゆるんでいる状態の姿を撮影されたのです。

後で彼のイメージが崩れないよう、誰かが隣の女性を黒く塗りつぶしたのでしょう。

幕末の志士も、女性にはめっぽう弱かったようですね。

中岡慎太郎の性格はまじめ

龍馬がカリスマ的リーダーで自由人だったのと対照的に、中岡はまじめな仕事人間だったようです。

祇園で遊ぶこともありましたが、それは仕事熱心だからこそ、ストレス発散の必要があったためでしょう。

普段は温厚な人柄で、喧嘩の仲介能力に長けていたといいます。

きっと理論型で実直だからこそ、誰もが彼の話に耳を傾けていたのでしょう。

盟友の龍馬とは思想的に相容れない点もありました。

龍馬は武力に反対していましたが、中岡は武力討伐を訴えていたのです。

しかし思想的な相違があるにもかかわらず、龍馬は相談事について、「中岡以外に話せる相手がいない」と語っていました。


やり方は違いますが、志が同じだからこそ、2人は盟友として結びついたのでしょう。

もしも2人が明治維新後も生き延びていれば、良い意味で刺激し合えるライバルとして、日本を変革していたに違いありませんね。

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