立原正秋の自宅は鎌倉。息子は料理人。酒豪、作品の評価、生い立ちまとめ

大人の恋愛小説で人気を博し、中世日本の古典に影響を受けた作品でも知られる立原正秋(たちはら まさあき)。

文学の街・鎌倉の自宅付近を散歩したファンもいるようですね。

今回は立原の自宅がある鎌倉エリア、息子が料理人という情報、酒豪の一面をご紹介します。

併せて作品の評価と生い立ちをまとめます。

立原正秋のプロフィール

本名:金胤奎(キム ユンキュ)

生年月日:1926年1月6日

死没:1980年8月12日

身長:不明

出身地:朝鮮慶尚北道安東郡(現在の韓国慶尚北道)、神奈川県横須賀市

最終学歴:早稲田大学専門部国文科中退

立原正秋の自宅は鎌倉

立原の自宅は今も神奈川県鎌倉市梶原にあるようですが、おそらく民家のため、場所は非公開です。

彼は『残りの雪』や『鎌倉夫人』など鎌倉を題材とした小説を多く発表していました。


多くの立原ファンは文庫本を片手に、作品に描かれたルートを散策してきたのでしょう。

また立原存命当時のファンは、突然鎌倉の自宅へ押しかけていたそうです。

立原は自宅の門前に「約束以外面会謝絶」と書いた立て札を立てかけたといいます。

いくら熱烈なファンとはいえ、約束もなしに自宅へ押しかけるとは大胆ですね。

1980年に、立原は食道がんで54年の生涯を終えました。

墓所ももちろん鎌倉にあり、菩提寺は関東十刹に数えられる「瑞泉寺」です。

四季折々の花が咲き誇る「花の寺」でもある寺院は、風情ある文章で知られた作家にふさわしい墓所といえますね。

立原ファンは鎌倉を題材とした作品を片手に、ぜひ参拝してみてはいかがでしょうか。

立原正秋の息子は日本料理人

1948年に立原は妻・光代さんとの間に、長男・立原潮さんをもうけました。

潮さんは日本料理人となり、東京都渋谷区に懐石料理店「立原」を開いています。

父は美食家としても知られたため、味へのこだわりは息子にも引き継がれたといえるでしょう。

また潮さんは『美味彩菜 立原潮の野菜料理塾』や『立原正秋の空想料理館』などの料理本を出版してきました。

さらに父が収集した骨董品についてまとめた『美のなごり 立原正秋の骨董』も発表。

料理の腕に加え、父譲りの文才にも恵まれていることがわかりましたね。

ちなみに立原の娘・幹さんは『風のように光のように 父・立原正秋』を発表、孫・継望さんはカメラマンとして活動していました。

文筆分野をはじめ、表現力に秀でた人々が多数いる家系といえますね。

立原正秋は酒豪だった

1955年から42年間発行されていた雑誌「酒」。

同誌新年号の名物企画「文壇酒徒番付」では、開高健や井伏鱒二ら錚々たる「酒豪の文豪」が名を連ねていました。

立原は1972~73年、2年連続で「東の正横綱」に選ばれるほどの酒豪でした。

何と朝食の際にビールを1本飲み、入浴の際は酒瓶を抱えていたそうです。

散歩中に鯵やアワビを仕入れ、帰宅後は持ち帰ったつまみに合わせて日本酒を3合楽しんだといいます。

スレンダーな身体からは想像できないほど、筋金入りの酒豪だったといえますね。

作家としての評価

立原作品の多くは、大人の恋愛模様が題材です。

奥様向けのメロドラマのような展開が続く場合もあり、作風が「好みではない」と感じる人も多いでしょう。

ただ立原は非常にふり幅の広い作家といえます。


純文学作家として『薪能』で芥川賞にノミネートし、『白い罌粟』では大衆文学賞である直木賞を受賞しました。

つまり芸術性重視の純文学と、愛欲描写で人々を楽しませる大衆文学の要素をいずれも取り入れた作家なのです。

芥川賞候補作『薪能』は、人妻の愛を描いたメロドラマのような作品ですが、単に情念を描いたわけではありません。

旧家の没落を、闇夜の篝火に投影させた美しい描写は、日本の伝統美を彷彿とさせます。

また直木賞受賞作『白い罌粟』は中年教師の破滅を描きつつ、白い罌粟の幻覚シーンに、読者を引き込む手腕が表れています。

立原作品は愛欲や情念を描きながらも、芸術的な描写を盛り込んでおり、決して下品ではないのです。

詩的描写が消滅しつつある現代文学界においては、立原作品は「美しい古典」と評価されるべきでしょう。

立原正秋の生い立ちまとめ

立原は1926年、朝鮮慶尚北道安東郡で「金胤奎(キム ユンキュ)」として生まれました。

幼くして父を亡くし、母が日本人男性と再婚したため、11歳からは神奈川県横須賀市で暮らします。

当時の朝鮮は日本に従属させられていた関係上、朝鮮人の立原は差別を受け続けました。

頭脳明晰な優等生でしたが、名門高校への受験資格を与えられなかったのです。

屈折した性格になってしまった彼は、ひたすら読書に明け暮れました。

きっと心の奥底にある朝鮮人としての意識を薄れさせるために、日本の古典文学に傾倒したのでしょう。

のちに世阿弥の『風姿花伝』を創作の土台とした彼の原点は、差別に苦しんだ青春時代にあったのかもしれません。


高校までを横須賀で過ごしたのち、早稲田大学に入学して終戦を迎えます。

米本光代と結婚したため、1947年に日本へ帰化し、「米本正秋」と名乗りました。

彼は朝鮮人としての暗い過去から逃れるように、日本人として生き、日本の古典に熱中したに違いありません。

屈折した生い立ちがあったからこそ、日本の美意識を体現する作家となり得たのでしょう。

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