仁志 敏久(にし としひさ)さんは小柄ながらも大きなガッツを持っている選手でした。
メジャー挑戦や原監督の構想外になると新天地を求めるなど向上心も見事なものです。
今回は仁志さんが野球部で取り組んだ改革やプロでのチャレンジを見て行きましょう。
仁志敏久のプロフィール
本名:仁志 敏久 (にし としひさ)
身長:171cm
出身地:茨城県古河市
生年月日:1971年10月4日
所属球団:読売ジャイアンツ(1996~2006) / 横浜ベイスターズ(2007~09)※選手歴
仁志敏久は主将として早稲田(野球部)の改革に挑戦
最初に仁志敏久さんが大学時代に取り組んだ改革を見て行きましょう。
常総学院高校から早稲田大学に進学して野球部に入部した仁志さんですが、部の雰囲気は過去の伝統を持ち出したり上下関係が異常に厳しいといった根性重視で失望したそうです。
1年生は球拾いばかりさせられたり、上級生と一緒に練習させてもらえないというスタイルは重苦しく、同期だった大越基さんは投手として活躍しましたが1年の夏に退部しました。
仁志さんは主将に就任してから野球部の意識改革に挑戦し、後輩たちには自分が感じた「理想とのギャップ」を感じさせないように壁が無く風通しの良い雰囲気作りに尽力。
何かあった時には自分が責任をとるために退部届けを用意していたほどの気合の入れようで、4年生最後のリーグ戦では自分たちでオーダーを決めて監督に認めさせたそうです。
その効果もあってか、1993年の秋リーグでは1990年春以来となる優勝を飾りました。
体育会系には良くも悪くも独自のノリや伝統が存在しますが、今の時代を生きる生徒たちの特性や雰囲気に合わせてシステムやスタイルを変えて行くこと必要不可欠です。
監督の意見ではなく選手たちがオーダーを決めたことについては賛否が分かれるものの、久々の優勝を飾ったという結果を見ると改革は成功と言って良いかもしれませんね。
チーム構想から外れたことでトレードを志願
次は仁志敏久さんがトレードを志願した経緯などを見て行きます。
仁志さんは1996年ドラフト会議でジャイアンツを逆指名して2位で入団し、小さい頃から憧れていた原辰徳さんの背番号(8)を受け継ぐなど大きな期待を集めました。
周囲からの期待に応えて原さん以来となる新人王を獲得する活躍を見せ、三塁手から二塁手にコンバートされてからは不動のレギュラーとしてジャイアンツに貢献。
しかし、2005年オフに原さんが再び監督に就任してからは1番ではなく下位打線に回されるようになり、加えて千葉ロッテから小坂誠選手が移籍してきたことで出場数が激減しました。
2006年シーズンは不調や怪我によって過去最低の成績に終わってしまい、原監督の構想外となったことで自らトレードを志願してライバル球団の横浜ベイスターズに移籍しています。
仁志敏久
横浜ベイスターズ小田嶋とのトレードで横浜へ移籍。
その後、石井琢朗と1番、2番、鉄壁の二遊間として活躍致しました。 pic.twitter.com/ojAqByUiWc— ジェリド・メサ中尉兼任P 競馬場在中しております。 (@titans0087) January 10, 2019
移籍後は137試合に出場して打率.270や10本塁打を放ち、開幕から28試合連続出塁記録や持ち前の武器である守備力を活かしてジャイアンツのファンにも復活をアピールしました。
移籍3年後の2009年に不振や年齢もあってベイスターズを離れることになりましたが、野球人生の晩年を飾る見せ場を掴むことが出来たトレードという決断に後悔は無いでしょう。
仁志敏久は密かにメジャー挑戦を宣言していた
ここでは仁志敏久さんがメジャー挑戦を計画していた話を見て行きましょう。
仁志さんは2004年オフにFA宣言をしており、代理人契約を結んでメジャーリーグへの移籍を目指していましたが、残念ながら獲得に手を挙げる球団はありませんでした。
その理由について同じタイミングで井口資仁さんがメジャー挑戦を表明したからと言われていますが、どちらかと言えば仁志さん自身の成績や体格がネックだったのかもしれません。
また、このFA宣言がジャイアンツ内での立場を悪くしたという意見もあったので、今回のチャレンジ精神はプラス面よりもマイナス面が多かったと言うこともできるでしょう。
ちなみに、2009年オフに横浜ベイスターズを退団してからアメリカの独立リーグ「アトランティックリーグ」に加盟するランカスター・バーンストーマーズに入団しています。
独立リーグでは31試合に出場して打率.208、1本塁打、3打点という成績を残したものの、右太もも痛の悪化もあって6月8日に同チームを退団して現役人生に幕を下ろしました。
米国での活動歴は短いものでしたが、そこでの日々はかけがえの無いものだったことでしょう。
仁志敏久がDeNAの二軍監督就任
最後に仁志敏久さんがDeNAの二軍監督に就任した件を見ておきます。
現役引退後の仁志さんは野球解説者や侍ジャパンでコーチを務める一方、筑波大学大学院(人間総合科学研究科)への進学や江戸川大学の客員教授就任など幅広く活動をしていました。
多くのファンからプロ野球のコーチ就任が待ち望まれていましたが、2020年11月18日に横浜DeNAベイスターズから二軍監督への就任が発表されて大きな話題になったそうです。
DeNA #仁志敏久 2軍監督の就任を発表。
背番号は「87」#baystars #サンスポ pic.twitter.com/BlkziIrjez
— ベイスターズ情報@サンスポ (@sanspo_baystars) November 18, 2020
これまでも色々とオファーを受けていたそうですが、大学院での勉強と重なったことから受けることが出来ず、丁度良いタイミングで要請があった二軍監督を受けることになりました。
仁志さんは体力強化と勝利への強い意志を持つことを指導の中心に据えているので、まさに自身が体験してきた野球人生をそのまま教科書にしたような内容と言えるでしょう。
また、一軍の監督も共にプレーしていた三浦大輔さんということもあって意思の疎通も順調と言われており、良い意味での距離の近さが武器になっている様子が伺えました。
これから先、ガッツあふれる仁志さんがどのような若手を上に送り込んでくれるか要注目です。
仁志敏久が結婚した嫁、家族と子供。小柄でも筋肉が凄かった!イチローへの辛口発言で炎上?
コメント