「断腸亭」の号で知られる昭和の文豪・永井荷風(ながい かふう)。
花街や下町の風情を描写した名作を多く残しました。
今回は荷風のあまり知られていない死因、市川市への愛、浅草での食事やとくに好物だったカツ丼のエピソードをご紹介します。
また同時代に活躍した谷崎潤一郎への評価、荷風の作風もまとめていきます。
永井荷風のプロフィール
本名:永井壮吉
生年月日:1879年12月3日
死没:1959年4月30日
身長:約180cm
出身地:東京市小石川区金富町四十五番地(現在の文京区春日二丁目)
最終学歴:官立高等商業学校附属外国語学校清語科(現在の東京外国語大学)中退
永井荷風の死因は吐血による窒息
荷風は1959年4月30日、79歳でこの世を去りました。
死因は胃潰瘍によって引き起こされた吐血による、窒息死だったそうです。
明け方に手伝いの老婦が家へ赴き、奥の6畳間で倒れている荷風を発見。
すでに亡くなっており、傍らには常に持ち歩いていたボストンバッグが置かれていたそうです。
今日は「荷風忌」。
明治から昭和にかけて活躍した小説家である永井荷風の命日です。
荷風が見出した谷崎潤一郎と並んで『耽美主義』の代表格として著名な作家でした。
79歳にて、自宅内で血を吐いて倒れていたのを通いの家政婦に見つけられ、「孤独死」という哀しい最期を迎えました。 pic.twitter.com/wqwuEFNDuw— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) April 30, 2021
中には2,334万円もの額が記帳された預金通帳、現金31万円、土地の権利証などが入っていました。
しかし財産以外に残したものは、2つの鍋、茶碗、湯飲みなどの日用品と書籍だけだったそうです。
文学と芸者遊び、食事を愛したものの、物欲は少なかったことがうかがえますね。
離婚を経て、生涯妻帯しなかった荷風。
「孤独死」と言ってしまえば悲しいですが、偏屈で孤独を愛した荷風としては、思い描いた通りの最期だったのではないでしょうか。
市川への愛は日記で確認可能
荷風終焉の地は千葉県市川市です。
荷風は終戦後の1946年1月に市川へ転居し、最期まで暮らしました。
代表作である日記『断腸亭日乗』には、市川の風景や名所が多く描かれています。
とくに自宅近くの白幡天神社や中山法華経寺の描写が多いことから、彼が日常的に散歩するコースだったことがうかがえるでしょう。
また傘を手にした荷風が真間川の周辺を歩く姿が目撃されているようです。
彼は自然豊かで歴史的名所も多い市川の地を愛し、執筆の息抜きに散歩を楽しんでいたに違いありません。
都心へのアクセスの良さも相まって、生涯暮らすには理想的な土地だったのでしょう。
永井荷風が毎日通ったそば屋は浅草。最後の食事はカツ丼
浅草のそば屋「尾張屋」は、荷風が毎日通うほど愛した店です。
毎日同じ時間に同じ席で、かしわ南ばんを食べていたといいます。
今日は永井荷風の命日なんですね。
先日永井荷風が愛した浅草の尾張屋さんにうかがったところ、お写真の目線の先にある席に案内いただきました。
天ぷら蕎麦が有名なお店ですが、かしわ南蛮ばかり頼んでいたようです。 pic.twitter.com/hNHSMaT4y2— 東京歴史倶楽部 (@rekishiclub) April 30, 2021
尾張屋のかしわ南ばんは、大きなネギと特注のごま油で炒めた鶏むね肉を使っています。
荷風が一滴残らず飲み干していたつゆは、3キロ以上の鰹節を火にかけて、じっくりダシを取るといいます。
毎日食べても飽きないよう、前面に出すぎない味を追求したプロの技を、荷風は楽しみ続けました。
浅草「尾張屋」かしわ南蛮。
かの文豪永井荷風先生が愛した浅草自慢の逸品です。
幼い頃から何一つ変わらない鶏肉と葱たっぷりのお蕎麦、大好きです😭 pic.twitter.com/rQM2K1FeMY— ぺーさん@新時代の幕開け🐬 (@shunpei1029) January 17, 2021
しかし1959年3月1日、同じく長年通っていた浅草の洋食店「アリゾナ」で昼食中、歩行困難に陥ります。
歩行困難になってからは、市川市八幡町にある自宅付近の「大黒家」でしか外食しなくなりました。
「大黒家」で荷風が毎回注文したのは、カツ丼です。
並カツ丼、上新香、酒一合の「荷風セット」は長年人々を楽しませてきました。
今日のランチは京成八幡「大黒家」にて荷風セット( ´ ▽ ` )ノ
ホントは菊正宗一合がつくけど、アイスクリームに変更してもらいました(^_^) pic.twitter.com/KLC8iNzN1o— ちゃん☆まぎこっち (@chanmagico) March 26, 2013
カツ丼の量と味は、荷風が通っていた当時から変わったことがなかったそうです。
歩行困難になっても毎日通い続けるほど、荷風はカツ丼の味に魅了されました。
亡くなる前、最後に食べたのも「大黒屋」のカツ丼だったそうです。
2023年現在、「アリゾナ」「大黒家」共に閉店しており、荷風ゆかりの店も少しずつ減ってきています。
せめて浅草の「尾張屋」で、荷風の特等席に座って、彼に思いを馳せたいものですね。
永井荷風は同時代の文豪・谷崎潤一郎を評価
永井荷風と谷崎潤一郎は、いずれも明治から昭和の時代を生き抜いた偉大な文豪です。
妖しい魅力を漂わせる作品を残したという共通点もあります。
近代日本文学を学び始めたばかりの人であれば、2人の違いがよくわからないかもしれませんね。
違いを挙げるのであれば、荷風は谷崎よりも先輩です。
荷風は谷崎の都会的で洗練された作品と美しい文体を高く評価しました。
そのため谷崎は文壇デビューを果たせたのです。
彼は生涯、自分を世に送り出してくれた先輩を尊敬し続け、態度で感謝を示しました。
戦時中に空襲で焼け出された荷風を、谷崎は岡山県の疎開先へ呼んで面倒を見たこともあります。
義理堅い性格だからこそ、生涯をかけて先輩に感謝を表明し続けたのでしょう。
作品においても、荷風から評価された「肉体的恐怖より生じる神秘幽玄」という要素を高め続けます。
荷風は谷崎独自の美学を初めて正当に評価した人物といえますね。
永井荷風の作風は軽妙洒脱
荷風と谷崎は、洗練された都会的な作品を多く残しています。
しかし筆者は、谷崎に比べると荷風の方がより親しみやすい作品を執筆した印象を抱いています。
『細雪』のように流麗な大作を残した谷崎よりも、荷風はもっと軽妙洒脱で読みやすい作品を残しているのです。
たとえばアメリカを訪れて書いた小説群『あめりか物語』は、外国文化に圧倒された荷風の感動が純粋につづられています。
海外旅行が珍しかった時代、荷風はブルックリン橋近くの喧騒や売春婦との交流などを緻密に描写しました。
さらに本作の続編『ふらんす物語』でも、留学先のフランスでの感動を純粋につづっています。
「文学」というと堅苦しいイメージが付きものですが、荷風は読みやすい文体と軽妙な作風が特徴です。
海外経験をつづった作品群は、普段は本を読まない人でも、旅行が好きであればあっという間に読み終えられるでしょう。
おしゃれで面白い紳士が、軽快な口調で異文化について解説してくれているようなものと思えば、読んでみたくなりませんか。
荷風文学を「堅苦しく古臭い」と思っていた人は多いでしょう。
まずはぜひ『あめりか物語』と『ふらんす物語』から、意外なほど軽妙な荷風ワールドに足を踏み入れてみてください。
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