初めて日本列島の姿を明らかにした「大日本沿海輿地全図」で知られる測量家の伊能忠敬(いのう ただたか)。
忠敬の地図がどれだけすごいものだったか、精度の高さから確認しましょう。
また地図を作るうえで使用した道具をチェック。
測量エピソードとルートも併せて確認しましょう。
伊能忠敬のプロフィール
本名:神保三治郎
生年月日:1745年2月11日(延享2年1月11日)
死没:1818年5月17日(文化15年4月13日)
身長:160cm前後
出身地:上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)
伊能忠敬はすごい!地図精度は誤差がわずか約1,000分の1
忠敬は50歳を過ぎてから、19歳年下の師匠・高橋至時に弟子入りして天文学を身に付けます。
寝る間を惜しんで天体観測や測量を学んだ姿勢から、彼の強い知的好奇心がうかがえますね。
4月19日は「地図の日」
日本で初めて精巧な地図を作った伊能忠敬が最初の測量として蝦夷地(北海道)に向けて出発した日(1800年)
伊能忠敬は千葉で商いをしていましたが50歳で隠居
暦学を学ぶため江戸に行き、天体観測や測量を学びました
測量を終えましたが、地図が完成する前に、73歳で死去🤗 pic.twitter.com/aSJMBtRwbD
— あさお@ちょっといい話 (@Asap1963Asap) April 19, 2020
天文学を学びながら、地球の形に思いを馳せていた忠敬。
ついに55歳で地図の制作を開始しました。
約4万キロもの道のりを歩く、測量の旅へ出かけるのです。
約4万キロは地球1周分にあたる距離で、忠敬の健脚ぶりと熱意がうかがえますね。
忠敬は仲間の協力も得ながら日本全国を歩き、距離を測りつつ、太陽や星の位置を参考に地図を作りました。
彼は地球を球形だと見抜いており、緯度1度の距離を28.2里と仮定。
測量結果から地図を作ったうえで、経度を計算して線を書き込みました。
忠敬が出した緯度1度の距離は、実際の値と比べて誤差が約1,000分の1。
テクノロジーが存在しない時代に作られた地図としては、かなり精度が高かったといえます。
ただし経度に関しては、天体観測が十分できなかったそうです。
さらに地図をまとめる際、接合部がうまくつながらなかったという問題もありました。
結果的に北海道と九州に大きな誤差が生じてしまったのです。
ただし大きな計算間違いはなく、日本にとって忠敬の地図は、外国からの攻撃に備えるうえでも重要な資料となったのです。
使った道具は鉄鎖や間縄、中象限儀など
忠敬はコンピューターがない時代でも、あらゆる道具を駆使して日本の姿を明らかにしました。
測量方法は、測りたい地形に沿って、適当な位置に杭を打つことから始まります。
このように測点を決め、梵天という目印を建てるのです。
算楽塾で企画しているイベント「伊能忠敬の測量体験実習」の打ち合わせ。
梵天や象限儀など試行錯誤しながら準備しています。 pic.twitter.com/A5kssYkHjR— 山下洋輔(柏市議会議員/柏まちなかカレッジ)@教育のまち (@yosukeyama) December 12, 2020
距離を計る際は鉄鎖、あるいは間縄を使用し、測点に沿って計算しました。
伊能忠敬の珍発明
鉄の棒が繋がった縄 鉄鎖
まっすぐ距離が計れるぜ。
でも重くて日本全国持ってあるけないぜ#nhk— ちぃ (@FromBearToBull) May 12, 2016
【伊能忠敬のカップ焼きそばの作り方】
①かやく類を中に入れ、お湯を入れます。
②3分待つ間に測量です。測りたい地形などに沿って曲がり角など適当な地点を選び測点を決めます。測点には杭を打ち、梵天と呼ばれる目印を建て、鉄鎖や間縄を使い距離を測っていきます。
③麺のびました— 伊能忠敬 (@imotadataka) May 27, 2016
角度は杖の先に磁石を仕込んだものを使って測量したそうです。
これはいわゆる「導線法」という方法で、方位と距離を計りつつ進んでいく測量法。
ただしいずれ誤差が生じてくるため、「交会法」という方法で修正していきます。
高い山などの目標を定め、各測点から見える目標の方位角から誤差を見つけるのです。
ほかにも平坦な道で走らせる「量程車」を使う際は、車輪の回転数から楽に距離を測れたようです。
遠くのものの方位を測る「半円方位盤」、星の南中高度を計算する「中象限儀」も、天体観測に不可欠な道具でした。
今朝の展示場点検時に、嘉数課長が伊能忠敬の象限儀(複製)のところで何やら作業中。角度か長さを確認していました。こうやって見ると、象限儀が大きいなというのがよく分かります。伊能さんは、これを持って全国を歩いていたのか…。(小野) pic.twitter.com/xfmjM3tgOZ
— 学芸員@大阪市立科学館(休館中) (@gakugei_osm) August 16, 2018
忠敬は晴れている日は必ず、緯度測定用に恒星の観測を行っていたそうです。
天体観測の知識と地道な努力によって、正確な緯度観測を達成したのですね。
忠敬を支えた道具とその使い道を知るだけでも、彼の努力と野心を感じられるでしょう。
伊能忠敬の測量エピソード&ルート
忠敬は合計10回に分けて日本全国を測量しています。
伊能隊が辿った地を巡るスタンプラリーなどもあり、多くの人がルートに関心を抱いているようですね。
ここで伊能忠敬ルートと離れ、まっすぐ進むよ。 pic.twitter.com/EIJyGXSe57
— まるにの (@maru_ni_no) December 1, 2019
ルートは蝦夷地、伊豆・東日本東海岸、東海・北陸、近畿・中国、四国、九州、伊豆諸島、江戸府内の順番です。
最初の蝦夷地では、117日間も滞在して測量に励みました。
相当な体力と気力の持ち主にしかできない、離れ業といえますね。
ただし忠敬は無測区間については、専用の駕籠があったとのこと。
最後の江戸府内の測量時は70代でしたし、幕臣ということもあり、当然すべて徒歩ではなかったのでしょう。
実際に伊能隊のルートを忠実に再現した人もいますが、かなりハードスケジュールだったようです。
寝る暇もなく、黙々と歩いては測量と天体観測をくり返すのは、余程の情熱がなければ不可能だったはず。
きっと忠敬は人柄が良かったため、仲間たちに慕われていたのでしょう。
そうでなければ伊能隊が一丸となって、このつらい作業を終えることはできなかったに違いありません。
最後の測量となった江戸府内の計測後、忠敬は八丁堀の屋敷にこもり、最終的な地図の作成に取り掛かり始めます。
しかし文政元年(1818年)、身体が衰え始め、4月13日に仲間たちに看取られて74年の生涯を終えました。
地図の完成を見ることはありませんでしたが、仲間たちが協力し合い、3年後に完成。
仲間たちは地図完成まで忠敬の死を公表せず、最期まで彼の志と共に地図を仕上げたのです。
伊能図は国宝として、今では厳重に管理されています。
現代人が何気なく目にしている日本地図の土台を作った伊能隊の人々の業績を思うと、胸が熱くなってきますね。
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コメント
この記事めっちゃわかりずらかったんだがやばいくらいにわかりずらいわー
しねきえろ
このコメント最低だよ
道具の写真と道具の名前があるといいです