長岡輝子の息子と夫、孫について。樹木希林は後輩。若い頃から演劇三昧

名作ドラマ『おしん』の大奥様役で知られた名女優の長岡輝子(ながおか てるこ)さん。

演出家や演劇講師としても活動し、2010年に102歳で亡くなるまで、多くの後輩に慕われました。

大往生だったからこそ、息子や夫に先立たれた長岡さんを看取ったのは、孫たちだったそうです。

交流のあった後輩・樹木希林さんの証言も紹介しつつ、若い頃から演劇三昧だった大女優の人生を振り返ります。

長岡輝子のプロフィール

本名:篠原輝子

生年月日:1908年1月5日

死没:2010年10月18日

身長:不明

出身地:岩手県盛岡市

最終学歴:東洋英和女学院

長岡輝子の息子はNHKプロデューサーの沼野芳脩

長岡さんの息子はNHKプロデューサーの沼野芳脩さんでした。

1934年生まれで、1997年に亡くなっています。

長岡さんは息子に先立たれた悲しみを抱えながら、残りの13年間を生きることになりました。

ただ意気消沈して仕事ができなくなるようなことはありませんでした。

晩年は身体を動かさなくて済む朗読に力を注ぎ、亡くなる2年前まで活動を続けています。

精力的に仕事を続けることで、息子の死の悲しみから解放されようとしていたのかもしれませんね。

長岡輝子の夫は金杉惇郎と篠原玄

長岡さんは生涯に2度結婚しており、息子は最初の夫との間にもうけました。

最初の夫は演劇人の金杉惇郎さん。

2人はフランスの戯曲を上演する劇団「テアトル・コメディ」の創立メンバーでした。

同劇団には、のちに昭和の名俳優となる森雅之さんも在籍。

1998年に刊行された『森雅之 知性の愁い、官能の惑わし』によると、長岡さんは森さんを「まあちゃん」と呼んでいたそうです。

さらに同劇団には女優の十朱幸代さんの父で、戦後は脇役俳優として活躍した十朱久雄さんも在籍していました。

錚々たる演劇人たちが、和気あいあいとフランス演劇を上演していたことがうかがえますね。

金杉さんと結婚した翌年の1934年、一人息子の沼野芳脩さんが誕生。

しかしわずか3年後に金杉さんが病没。

さらに軍国主義の時代の影響で、「テアトル・コメディ」は解散に追い込まれました。

長岡さんは愛する夫と、2人の青春の証を相次いで失ったのです。

しかし決してめげずに、演劇活動を続けます。

1939年に創立されたばかりの劇団「文学座」の一員となり、自ら書いた『マントンにて』で演出を担当。


「テアトル・コメディ」で一緒に活動した森さんも文学座に参加していたため、気心の知れた仲間との演劇活動を続けられたのです。

戦争の影響で表現活動が取り締まられ、多くの劇団が解散に追い込まれる中、文学座は終戦の日まで生き残りました。

長岡さんは「今度こそ劇団を解散させない」という強い気持ちを持って活動していたのでしょう。

私生活では戦時下の1944年、実業家の篠原玄さんと再婚。

彼もまた最初の妻を亡くして悲嘆に暮れていました。

篠原家と長岡家は交流があったようで、篠原さんを「慰める会」は長岡家で開催されました。

愛する伴侶を失った長岡さんと篠原さんは、徐々に交流を深めていったのでしょう。

お互いの悲しみを癒し合いながら交際を重ね、結婚に至り、添い遂げるのです。

篠原さんは金杉さんと異なり、妻と同じ志を持つ演劇人ではありませんでした。

しかし実業家という立場から、演劇に情熱を傾ける妻の活動を全面的にバックアップしてくれたのでしょう。

長岡さんが大女優になるため必要だった陰の功労者として、常に傍らに寄り添い続けたのです。

長岡輝子の孫3人が臨終を看取る

晩年の長岡さんは篠原さんにも先立たれてしまいました。

102歳の長寿でしたから、愛する人たちに次々と先立たれてしまう事態は避けられなかったのです。

しかし3人の孫たちに恵まれ、最期を看取ってもらえたため、決して孤独ではなかったのでしょう。

孫たちは一般人のため情報はありませんが、偉大な祖母のことを心から尊敬しているに違いありませんね。

長岡輝子は樹木希林の先輩

名女優の樹木希林さんは、生前長岡さんから教わった言葉を胸に刻んでいたそうです。

希林さんにとって長岡さんは、文学座の大先輩にあたります。

胸に刻んでいたのは、長岡さんから教わった詩『最上のわざ』の一節。

「老いの重荷は神の賜物」

希林さんは晩年に、肺炎や左目の失明、乳がんの前身転移などをくり返しました。

「老いの重荷」を背負いながらも、映画やバラエティ番組に最期まで出演を続けています。


どんな重病も「神の賜物」として受け止め、前向きに生き続けた背景には、長岡さんから教わった詩の存在があったのです。

長岡さんも102年の生涯ともなると、世間には公表していなくても、病気や不調に悩まされた時期があったはず。

それでも病気を「悪いもの」ととらえず、しっかりと向き合いながら最期まで仕事を続けたのです。

「重荷」を「賜物」と考えられるようになるには、かなりの努力が必要ですね。

長岡さんと希林さんは、若い頃から演劇に対する真摯な姿勢を貫き、精進を重ねました。

そこで鍛えた強靭な精神力を武器に、晩年は悟ったような心持ちで、病気と共に生きられたのでしょう。

老いへの恐怖から解放される第一歩は、目の前にある課題と真摯に向き合い努力を続けることなのかもしれません。

長岡輝子は若い頃から演劇三昧

若い頃から貫禄ある女優として、演劇三昧の日々を送っていた長岡さん。

東洋英和女学院を卒業後、文化学院に進学し、その後は中退。

学生時代から演劇に興味を持っていたため、日本を飛び出して、パリで演劇を学び始めました。

父の死をきっかけに帰国せざるを得なくなりますが、演劇への情熱は消えませんでした。

帰国後は先述の通り金杉さんや森さんたちと「テアトル・コメディ」で活動。


文学座へ移ってからも、女優、演出家、脚本家として活躍を続けました。

どんな状況においても、演劇への熱い情熱の火を絶やさなかった長岡さん。

多くの後輩に慕われた彼女の魅力は、ひたむきに演劇を追究し続けた、見事な生き様だったのです。

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