大屋政子の娘と自宅。奇抜なファッションとバレエ愛。愛車ボルボ、資産激減の晩年

夫の大屋晋三さんを「うちのおとーちゃん」と呼び、ピンクの衣装と大阪弁で話題を振りまいた大屋政子(おおやまさこ)さん。

娘とは絶縁状態にあったといわれますが、なぜそうなったのか、また大豪邸の自宅はどうなったのかを探っていきます。

もはや個性の上をいく、強烈な破壊力を秘めたファッションには彼女なりの戦略がありました。

私財を投じて普及に尽力したバレエ、愛車ボルボ、晩年には激減していた資産についてもみていきます。

大屋政子、娘との絶縁と和解

不倫の末、29歳で結婚するまではクラブ歌手として生計を立てていた大屋政子さん。

生涯愛した「おとーちゃん」は大蔵大臣、運輸大臣などを歴任し、帝人の社長を務めた大屋晋三さんです。


大屋政子さんは玉の輿結婚と話題を呼んで時の人になりますが、彼女もまた衆議院議員の父と資産家の母をもつ生粋のお嬢様でした。

裕福な生活が激変したのは、19歳の時に父が急死してから。

「没落したらあかん」という人生哲学は、ここで味わった辛酸によるものです。

晋三さんとの間にもうけた子供については、ご本人がインタビューで「娘たち」と発言していることから、2人以上いることがわかります。

確認できたかぎりでは、泰子さん、啓子(安子)さん、登史子さんの3女でした。

もっとも著名な娘は、帝塚山病院理事長をつとめる登史子さんでしょう。

一時期、登史子さんと絶縁状態にあったという大屋政子さん。

結婚後は帝人の社長である夫の後ろ盾もあって事業を起こし、大阪を代表する資産家になりました。

ところが、晋三さんの他界により歯車が狂いはじめます。

懇意にしていた人たちは手のひらを返すように疎遠になり、信頼していた側近にも裏切られ、2億円を超える大金をだまし取られてしまいました。


以降は周囲の人間への猜疑心が芽生え、人間不信に陥っていたといいます。

その猜疑心は家族にも向けられるようになり、娘に会社を乗っ取られると公言するまでに。

家族と絶縁し、いっそう孤独になった政子さんにすり寄ってくるのは拝金主義の亡者たちばかり。

心はどんどん麻痺していくという悪循環でした。

さらに、1997年には胃がんが発覚。

事業が盛況だった頃とは打って変わって、お見舞いにくる人はほとんどいませんでした。

そんな中、病室に泊まりこんでそばにいてくれたのは、かつて絶縁を宣言した登史子さんでした。

がん発症から2年後、大屋政子さんは「こんな弱い母親でごめんな」と娘に言い残して旅立っていったそうです。

大屋政子の自宅は老人ホームに変貌

大屋政子さんの自宅は大阪きっての高級住宅街、帝塚山にありました。

近所でもひときわ目をひいたというその豪邸は、700坪、鉄筋3階建て、地下2階。

14の部屋、7つのキッチンルーム、300人を収容できるリビングなどがありました。

寝室は、なんと250畳。

250畳といわれてもちょっとピンときませんが、ベッドまでたどり着くのに2分かかる広さとのこと。

大屋邸を訪れた人の話によると、客間はまるで大使館か迎賓館の応接間のようで、壁には幅広い交友関係を示す記念写真が飾られていたそうです。

さらに驚くのは、自宅に歯科医院の椅子やレントゲンを設置して医師に来てもらい、定期検診を30年も続けていたこと。

2021年現在、この大豪邸はもうありません。

自宅跡地にあるのはマサコーヌ帝塚山。

大屋政子さんの遺志を生かして建てられた介護付有料老人ホームで、施設名はもちろん大屋さんにちなんだもの。

運営法人の理事長は登史子さんです。

奇抜なファッションは計算された戦略だった

大屋政子さんといえば、多くの人が思い浮かべるのが独特の甲高い声とピンクの派手なファッションでしょう。

お人形が着るような衣装は彼女が意図して演出したものでした。

地声はテレビ出演時のハイトーンではなく、落ち着いた声だったといわれていますね。

年齢にそぐわない、母親のミニスカート姿が嫌でたまらなかったと振り返る登史子さん。

恥ずかしいからやめてほしいと頼んだこともあるそうです。

ところが母から返ってきたのは、70を過ぎて普通のファッションをしていたらテレビから声がかからない、という言葉。

政治家の妻であり、帝人の社長夫人でもあった大屋さんは、一見なんの苦労もないセレブリティのように見えますが、「自分のめんどうは自分でみる」という考えをもった女性でした。

国の助成金や財界からの寄付をあてにせず、私財を投げうってバレエの普及活動に情熱を傾けたのもその一例でしょう。

コンペティションを開いたり、一流のバレエダンサーを海外から呼ぶにはお金がかかります。

彼女はタレントとしてメディアに出て、その資金を捻出しなければならなかったのです。

私財を投じてバレエ普及に尽力

母・トクノさんの影響で、4歳からバレエとオペラに親しんでいた大屋政子さん。

とりわけバレエの普及には力を入れて、「大屋政子バレエ教室」を主宰したり、「大屋政子バレエ財団」を設立するなど、芸術・文化的活動にも積極的でした。

こうした活動は海外でも評価され、各国からさまざまな文化勲章を受章。

ルドルフ・ヌレエフ、マーゴット・フォンテーンといったバレエ界の最高峰との交流は、「マサコ・オオヤ世界バレエコンペティション」へと実を結びます。


回を重ねて「世界三大バレエコンペ」と評されるまでになった大屋さんのコンペティション。

ところが、国の助成金も財界からの寄付もなく、独力で立ち上げたコンペだったことから、「あれはプライベートなコンペにすぎない」と陰口をたたく関係者もいたそうです。

大屋政子の愛車ボルボ、晩年に資産激減

70年代半ばにヤナセがボルボの輸入から手を引いたあと、代わって輸入販売していたのが帝人の子会社・帝人ボルボでした。

親会社の帝人社長夫人である大屋政子さんの愛車がボルボだったのは当然といえば当然かもしれません。

ボルボ264TE、その後は960ロイヤルと、生涯ボルボを愛用したそうです。

セレブタレントとして一世を風靡した大屋政子さんですが、本業は女社長でした。

手がけた事業は高級ゴルフ場、病院、海外レストラン、バレエスクールの経営など、じつに多岐にわたるもの。

クラブ歌手だった大屋さんの総資産は300億円といわれるようになりました。

しかし1996年の側近による横領に続いて、翌年にはゴルフ場の100億円もの負債が発覚。

大屋さんは国内外のゴルフ場やマンションなど、財産の多くを売却して返済に充てました。


300億円の資産は、最終的に自宅や株など数億円にまで減ってしまったとのことです。

芸能活動やビジネスばかりでなく、国内外のVIPと交流を深め、民間外交官とも呼ばれた大屋政子さん。

帝塚山病院やマサコーヌ帝塚山にみるように、その遺産は今なお地域貢献を果たしているといえるでしょう。

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