幕末に思想家・兵学者として活躍し、象山神社の祭神としても知られている佐久間象山(さくま しょうざん)。
鎖国下においてオランダ語を学び、西洋兵学を修めて兵器を作るなど、先進的な人物でした。
先進的な考えが危険思想とみなされた結果、暗殺されてしまいましたが、子孫は残していたのでしょうか。
さらに妻や息子の詳細、ハーフ説をチェックし、象山の家系図情報をまとめましょう。
佐久間象山のプロフィール
別名:修理
生年月日:文化8年2月28日(1811年3月22日)
死没:元治元年7月11日(1864年8月12日)
身長:推定175cm
出身地:信濃埴科郡松代字浦町(現在の長野県埴科郡)
佐久間象山の子孫はおらず家系は断絶
象山は自らを「国家の財産」と称していました。
幼い頃は神童と呼ばれ、学問や武芸に秀でた人物だったのですが、自分でも天才であると自覚していたのです。
そのため弟子の坂本龍馬に、「僕の子孫は必ず大成するから、子供をたくさん産める女を紹介してくれ」と依頼したとのこと。
自分の血を継いだ子孫は偉大になると確信していたところに、自信過剰な人柄がうかがえますね。
しかし彼の期待もむなしく、4人の子供の内、3人は病没。
成人したのは息子の啓之助1人だけでした。
啓之助は父と同じく傲慢な性格で、しかも素行が悪かったそうです。
父の暗殺後、仇討ちを目的に「三浦啓之助」の名で新選組へ加入。
しかし態度が悪かった上に、脱走してしまったとのこと。
今日もお疲れ様です✨
7/11佐久間象山が暗殺された後
背中に傷は武士の恥という事でお家取り潰しに父の仇をとる為息子は名前を変え #三浦啓之助 として新選組に入隊します
佐久間象山は天才ですが鼻につく性格らしくちょっと敵が多い人でした
息子は新選組でやっていけるのかな?
え、脱走?😰 pic.twitter.com/f9E9azuoUy
— 新選組ショップ (@sinsengumi_shop) July 11, 2021
さらに故郷の松代で乱暴を働き投獄。
伯父にあたる勝海舟の計らいで慶應義塾に入れてもらい、その後は学問に励むかと思いきや、女性問題によって退塾させられます。
明治維新後は父の名前を使い裁判官となりますが、泥酔の末に、警官との暴行事件を起こし免職となりました。
人生の大半は周囲に迷惑をかけ続け、31歳で河豚か鰻のかば焼きの食中毒により世を去っています。
天才の象山も、まさか自分の息子がここまでだらしないとは考えていなかったでしょう。
「天才の家族も天才」という根拠のない自信があったため、つい息子を甘やかしてしまったのかもしれません。
佐久間象山の妻は佐久間順子
象山の妻は順子という女性でした。
順子は勝海舟の妹にあたります。
久しぶりに来てみたら、長屋門にこんな扁額が付いている。
これは、勝海舟の書斎に飾られていた額をもとにして作ったもの。書は佐久間象山の筆による。佐久間象山の妻は勝海舟の妹。 pic.twitter.com/GR4Cg2oSxO— 橋本敏行@東京3万年案内人 (@geshutalt) August 19, 2020
夫婦の年齢差は24歳で、象山が41歳、順子が17歳の年に結婚しています。
何と順子の方が結婚を強く望んだそうです。
海舟は象山の弟子にあたり、順子も天才学者である象山を尊敬していたのでしょう。
10代でありながら中年の、しかも愛妾を複数抱えていた男性に惹かれるとは、風変わりな少女に思われていたかもしれませんね。
それだけ象山が才能に恵まれた、魅力的な男性だったのでしょう。
佐久間象山の息子は4人
象山には妾のお菊との間に2人の息子がいました。
長男の恭太郎は幼少期に病没。
次男の啓之助は先述の通り、乱暴を働いた末に食中毒で亡くなっています。
もう1人の愛妾は小間使いのお蝶です。
彼女は長女・菖蒲と三男・三郎を産みましたが、いずれも幼くして病没しています。
正妻である順子との間には子供がいませんでした。
しかし彼女の兄である海舟は、唯一成人した象山の子・啓之助を慶應義塾に入れてあげるなど、世話を焼いています。
血のつながりはなくても、勝家の人々が佐久間家のためにサポートをしてくれていたことがうかがえますね。
佐久間象山のハーフ説はデマ
象山がハーフであるという噂が流れているようです。
確かに写真を確認すると、彫りが深く、日本人離れした顔をしていますね。
勝海舟、吉田松陰、そして龍馬さんに影響を及ぼした佐久間象山先生は身長なんと186cm!デカい!(当時の平均155cm)
あのペリーとも会ったことがあって、誰にも会釈しないペリーが思わず頭を下げたという逸話が(笑)ハーフ顔で日本人っぽくないよねw pic.twitter.com/hWQBn3pPxv— 伊藤博文くん(2018年、そう今年は明治150年!) (@hero_boom_me) October 28, 2017
特に目元の彫りの深さが目立っており、西洋人の目元にあるような陰を確認できます。
しかも当時の男性の平均身長が150cm代なのに対し、象山は170~180cmの高身長だったそうです。
外国人の血を継いでいるように見えるのは当然ですね。
しかし当時は鎖国時代であり、象山がハーフであるはずがありません。
父は松代藩主に重用されていた卜伝流(ぼくでんりゅう)剣術の達人・佐久間一学国善、母は足軽の娘・まんでした。
象山はハーフではありませんので、あくまで「ハーフのように見えた人」として覚えておきましょう。
佐久間象山の家系図まとめ
佐久間家の祖先は、戦国時代に武田信玄を2度も破った村上義清の家臣・佐久間大学とされています。
ただ象山自ら執筆した『佐久間氏略譜』では、桓武天皇の曾孫の末裔が祖先とされており、諸説あるようです。
象山の祖父・長谷川善員は松代藩士でした。
彼は次男で、象山の父である国善を佐久間家の養子にして家督を継がせています。
いずれにせよ由緒ある家系に入ったことになる象山。
しかし自身の息子は乱暴を働いた末に早世し、家系は断絶してしまいました。
どれだけ才能に恵まれていても、おごり高ぶらず、子供にも謙虚でいるよう伝えるべきなのかもしれませんね。
佐久間象山が天才の理由。思想と功績。吉田松陰と坂本龍馬は弟子
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