幕末に活躍した松代藩士で、思想家でもあった佐久間象山(さくま しょうざん)。
名だたる偉人たちに影響を与え、天才と称される人物ですが、どのような思想の持ち主だったのでしょうか。
また具体的な功績についても気になるところ。
吉田松陰と坂本龍馬が弟子という情報についても確認し、象山の偉大さをチェックしましょう。
佐久間象山のプロフィール
別名:修理
生年月日:文化8年2月28日(1811年3月22日)
死没:元治元年7月11日(1864年8月12日)
身長:推定175cm
出身地:信濃埴科郡松代字浦町(現在の長野県埴科郡)
佐久間象山はダ・ヴィンチに例えられる天才学者
象山がいかに天才的な学者だったのか確認していきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、画才や天文学・解剖学の各分野で活躍した天才でした。
実は象山は「日本のダヴィンチ」と称される学者だったのです。
3歳で漢字を覚え、幼少期には神童と呼ばれるようになります。
6歳の時点で近所の子供たちに対して、文献に関する講義を行うなど、天才にふさわしいエピソードには事欠きません。
さらに和歌・漢詩・書画・儒学・和算などにも優れていました。
また卜伝流(ぼくでんりゅう)剣術の達人だった父から武芸を教わっていたため、文武両道の天才だったそうです。
23歳で藩の給費生に選ばれて江戸へ出ることになりました。
江戸では儒学の第一人者だった佐藤一斎から朱子学を学び、優秀な成績を修めます。
天保10年(1839年)に神田於玉ヶ池で「象山書院」を開き、儒学を教え始めました。
天保13年(1842年)に、松代藩主・真田幸貫が海防掛に就任。
幸貫に仕えていた象山は顧問となり、アヘン戦争の情勢を研究しました。
西洋の情勢に強くなるため、わずか2か月の間にオランダ語をマスター。
さらにオランダの自然科学書や医書、兵書を言語で読破します。
加えて西洋砲術に精通していた江川英龍(えがわ ひでたつ)に師事し、兵学も習得。
結果的に大砲の鋳造まで成し遂げています。
独学で望遠鏡や電信機も製作し、ペリー来航時には視察に出向くなど、鎖国下において国際的な人材として活躍したのです。
並外れた知力を持つ天才だった象山。
ただし、寝る間も惜しみ勉強に取り組む努力家でもあったそうです。
生まれ持った才能があったとしても、結果を残すにはやはり努力が不可欠なのですね。
佐久間象山は朱子学の思想家、のちに西洋の知識を得て数々の功績を作る
当初は中国伝来で日本の伝統的な学問であった儒学・朱子学を学んでいた象山。
彼の思想は保守的かつ伝統的でした。
しかしアヘン戦争で清朝が敗北し、松代藩随一の思想家として藩の顧問に抜擢されて以来、西洋に目を向け始めるのです。
あまり相性の良くなかった兵学の師匠・江川英龍と袂を分かち、独学で西洋式の兵学を修得。
海防の重要性を説いた『海防八策』で評価されると、実際に大砲を改良して最新鋭の大砲鋳造に取り組むのです。
当初は日本の伝統にこだわっていたものの、西洋に目を向け始めたことで、数々の最新機器開発に成功。
ガラス、電磁石、絹巻銅線、さらに地震予知機や電気治療器まで作り上げた功績は計り知れません。
さらに天然痘ウイルスに効果的な予防接種の開発も検討していたそうで、最終的には進歩的知識人となっていた様子がうかがえます。
しかし当時はまだ鎖国時代。
象山の先進的な思想は危険思想とみなされ、彼は尊王攘夷派の志士に命を狙われることになります。
万能だった象山の唯一の誤算は、あまりに自信過剰で、護衛すら付けずに馬で移動していたことでした。
元治元年(1864年)、一橋慶喜の招きで上洛した象山は、公武合体論と開国論を説きました。
しかし「西洋かぶれ」とみなされていた彼は、京都を馬で移動している最中、前田伊右衛門と河上彦斎らによって暗殺されます。
河上は幕末4大人斬りの1人で、『るろうに剣心』の主人公・緋村剣心のモチーフになったとされています。
佐久間象山、大村益次郎遭難之地。二人ともすごい人物過ぎて説明は割愛。
因みに佐久間象山を斬ったのは幕末の4大人斬りの一人、河上彦斎。るろうに剣心の緋村剣心のモチーフになった人です。 pic.twitter.com/hr1Xnic335— 斉藤ですが! (@saitode_gatotsu) September 27, 2021
53年の生涯を終えた天才学者。
天才であることを自認していたためか、周囲の意見を聞かない頑固者でもありました。
「護衛を付けた方が良い」という忠告さえはねのけ、寿命を縮めてしまったのかもしれません。
吉田松陰や坂本龍馬はいずれも弟子
西洋の知識を身に付けた学者であり、同時に兵器開発などで現場でも活躍した象山。
教育にも力を注ぎ、後進の育成に励んでいました。
吉田松陰や坂本龍馬といった偉人たちは、いずれも象山の弟子です。
アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。
ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。#吉田松陰 pic.twitter.com/e8Dx66C1Jp— 幕末~激闘 そして激動~ (@tweetjoker012) September 30, 2021
弟子の偉大さを考えると、師匠である象山はさらに逸材だったことがうかがえますね。
しかし松陰や龍馬に比べると、象山の知名度は低い印象があります。
これほど多くの弟子を育て、数々の天才的エピソードがあるにもかかわらず、なぜ知名度は劣るのでしょうか。
象山は自信過剰だったため、非常に高圧的な人物だったそうです。
そのため世間的には嫌われており、死後に功績を正当に評価してくれる人が少なかったとのこと。
人柄が悪かったために、象山は知名度・人気共に、弟子たちに及ばないのでしょう。
功績が正当に評価されている現在、本人もやっと満足してくれているのではないでしょうか。
ただ、あまり友達になりたい人物とは言えないかもしれませんね。
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