織田作之助のカレー。信長の子孫?ゆかりの大阪、太宰治&坂口安吾と同じ無頼派

「オダサク」の愛称で親しまれた小説家の織田作之助(おだ さくのすけ)。

代表作『夫婦善哉』にも登場する、彼がこよなく愛したカレーを紹介します。

また彼の子孫および彼が織田信長の子孫であるという情報、ゆかりの地・大阪にある関連スポットを確認。

さらに同じ「無頼派」の小説家だった太宰治、坂口安吾との友情エピソードも見ていきましょう。

織田作之助のプロフィール

本名:織田作之助

生年月日:1913年10月26日

死没:1947年1月10日

身長:約177cm

出身地:大阪府大阪市南区(現在の天王寺区)

最終学歴:第三高等学校文科甲類(新制京都大学教養部の前身)退学

織田作之助が愛した自由軒の名物カレー

作之助は大阪の難波にある老舗洋食店「自由軒」のカレーをこよなく愛していました。

いつも注文していたのは、ルーがご飯にまぶされた「名物カレー」。

一般的なカレーはご飯にルウがかけられていますが、名物カレーはご飯とルウをあらかじめ混ぜ込んであります。

具材は牛肉と玉ネギだけというシンプルなルウ。

トマトピューレの入ったソースと牛スジのブイヨンによる旨みが魅力です。


これを混ぜ込んだご飯の上には、生卵が乗っています。

さらにソースをかけると旨みが増すようですね。

一度食べると病みつきになる人も多い、庶民派グルメと言えます。

作之助はほとんど毎日自由軒に通い、名物カレーを食べていました。

カレーを食べながら構想を練ったのが、代表作『夫婦善哉』です。

作品ではヒロインの蝶子が名物カレーを食べるシーンが描かれています。

『夫婦善哉』を読んで、「名物カレーを食べてみたい」と考えた人は多くいるでしょう。

店内には作之助が店にあげたという、作品執筆中の自身が映った写真が飾ってあります。

『夫婦善哉』で売れっ子作家になる前から通い続けた店に、恩返しをするため、写真を遺してくれたのかもしれませんね。

織田作之助に子孫はおらず、織田信長の子孫でもない

ところで作之助が織田信長の子孫という情報があるようですが、本当なのでしょうか。

確かに家紋が「織田木瓜」という共通点があるため、可能性はありそうですよね。

ただ作之助が信長の子孫であるという確証はないため、おそらく関係はないのでしょう。

信長の子孫と言えば、17代目子孫を自称する、フィギュアスケート選手の織田信成さんが有名ですね。

また子孫と公認されているのは、ジュエリー会社に勤務する織田茂和さんでした。

ちなみに作之助は早世しており、自身の子孫は残していません。

もし信長と作之助の血を継ぐ子孫がいれば、何らかの業績を残していたかもしれませんね。

織田作之助のゆかりの地・大阪

商人の街として知られる大阪。

作之助の父・織田鶴吉も商いをしており、仕出屋「魚春」の店主でした。

今でも中央区上汐1丁目の一画に、当時の家並が残っているそうです。

生家があった場所の近くには、「難波大社 生國魂神社」があります。

正面に「千鳥破風」「すがり唐破風」「千鳥破風」と呼ばれる3つの破風を備えた、珍しい「生國魂造」様式の神社です。

神社の中には作之助の銅像も建てられています。

また同じく大阪出身の文豪・与謝野晶子と共に、ゆかりの石碑が大阪エリア各所に存在します。

大阪を散策するときは、作之助の生まれ育ったエリアを歩いてみると、彼に思いを馳せられるはず。

休憩時間には自由軒で名物カレーを食べれば、きっと文豪気分になれますよ。

織田作之助は太宰治&坂口安吾と同じ無頼派の作家

作之助は昭和初期を代表する小説家である、太宰治と坂口安吾と共に、「無頼派」と呼ばれていました。

別名「新戯作派(しんげさくは)」で知られる作家の一群のことです。

いずれも敗戦後の混乱期、反道徳的な表現を使って、既成文学をはじめとした権力側へ対抗した人々でした。


3人はそれぞれ反権力的という点で共通していたのです。

無頼派の3人は仲良し

作之助、太宰、坂口は実際に交流があり、お互いの実力を認め合っていたようです。

3人全員が初めて顔をそろえたのは、1946年11月22日に銀座の実業之日本社で行われた座談会でのこと。

評論家の平野謙が司会を担当し、「現代小説を語る」というテーマで議論が展開されました。

座談会終了後は、企画担当の倉崎嘉一も加えた5人で、バー「ルパン」へ繰り出しました。

さらに3日後の25日には再び作之助、太宰、坂口の3人で対談し、やはりルパンへ出かけたそうです。

同じ無頼派の作家同士、仲間意識が強かったようですね。

25日に写真家・林忠彦が、後世に残る作之助たちの有名な写真を撮影しています。

改めて写真を見ると、仲間同士の飲み会の楽しそうな雰囲気が伝わってきますね。

太宰と坂口は作之助のために追悼文を執筆

無頼派の3人が仲良く交流できたのは、わずか数か月ほどの間でした。

対談から約1か月後の翌1947年1月10日、作之助は肺結核により33歳の若さで亡くなります。

東京新聞の文化欄には太宰による追悼文「織田君の死」が掲載されました。

追悼文によると、作之助は生前から「死ぬつもり」で日々を生きていたようです。

文学も酒も思う存分楽しむ作之助の姿から、太宰は内に秘めた悲哀を感じ取っていたのでしょう。

初対面のとき「なんてまあ哀しい男だろう」と考えたという太宰。

このとき作之助はすでに体調を崩して、死を覚悟しながらも、作家業に全力を注いでいたに違いありませんね。

また2019年には70年ぶりに、坂口が作之助のために書いた追悼文も発見されました。

通説では、坂口は作之助の死に際し酒を飲んだ程度で、追悼文を残していなかったとされてきたのです。

しかし仲間の死を悼む本格的な文章を残していたことがわかり、多くの無頼派ファンが衝撃を受けたようですね。

追悼文では作之助のことを「才能の片鱗を残しただけ」で死んでしまったと表現。


いずれ偉大な作家になりえただろう若者の才能を、心から惜しんでいたことがうかがえます。

対談文と追悼文を読むだけでも、3人の友情が感じられ、目頭が熱くなるかもしれませんよ。

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