天才・太宰治は芥川龍之介に心酔。中原中也・川端康成との関係は?

「斜陽族」という流行語を生んだ『斜陽』や、「恥の多い生涯を送って来ました」という書き出しで有名な『人間失格』などを遺し、38歳という若さで人生に幕を下ろした太宰治(だざいおさむ)。

人間の美醜を生々しく描くことにかけて、これほど成功した作家はいないかもしれません。

時代を経ても熱烈なファンを獲得し続ける天才ぶりに迫るとともに、心酔していた芥川龍之介のこと、また中原中也・川端康成との関係についてみていきます。

太宰治のプロフィール

本名:津島修治

生年月日:1909年6月19日

死没:1948年6月13日

身長:175㎝

出身地:青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)

最終学歴:東京帝国大学仏文科中退

現代人にも人気の天才文豪・太宰治

令和元年に生誕110周年を迎えた昭和の文豪・太宰治。

昭和23年、玉川上水にて愛人と入水自殺をとげてから70年以上の歳月がたちますが、今もなお売れ続け、新たなファンを獲得している作家の一人です。

太宰について広く知られるのは、『走れメロス』『斜陽』といった名作を発表する一方で、私生活では自殺未遂を繰り返したり、薬に溺れたりと破滅型の生涯を送ったこと。


代表作である『人間失格』は、かつて自身が薬物依存症で病院に送られ、まさに人間失格を痛感した実体験から生まれたものです。

このように、太宰文学というと暗く退廃的な作風をイメージしがちですが、その一方で『お伽草紙』『新釈諸国噺』といったユーモラスな作品も残しました。

また筆の冴えは短編・長編を問わず、わずか数枚の原稿用紙でも見事に書き上げる技巧派でもありました。

太宰治の小説を読んだ人は、「これは自分のことだ」と思うか、「ジョークみたいな話だ」と思うかに分かれるかもしれません。

それでも時代を超えて圧倒的な共感を得ているのは、作中の絶望感や滅びの美学など普遍的な感覚が読者の心をわしづかみにするからでしょう。

ことに多感な青春時代に太宰作品に触れようものなら、その影響を受けることは請け合いです。

また作品によっては、不特定多数の読者にではなく自分だけに語りかけているような気がするという声も多いですね。

読者はまるで太宰が自分のために小説を書いてくれたような錯覚に陥るというわけです。

昭和の天才文豪と呼ばれた太宰治ですが、彼が生きていた時代よりも空虚感が漂う現代にこそ受け入れられる要素が多いのかもしれません。

芥川龍之介の名を書き連ねたノートが公開される

太宰治が大正時代の文豪・芥川龍之介に傾倒していたのは有名な話です。

昭和2年、芥川の自殺を知った高校生の太宰はショックのあまり引きこもり、作家の死はこうあるべきかもしれないと語ったといわれます。

平成20年代に入り、中学・高校時代のノートや日記が日本近代文学館に寄贈され、全容が公開されました。

高校時代のノートをみると、はじめは授業の内容が真面目に書きとられているものの、途中からは落書きだらけに。

あるページでは、芥川龍之介の名前を10回ほど書き連ねています。

まるで授業に飽きた女子中高生が好きな人のことを考えているかのようですが、10代の太宰にとって芥川はまさにヒーロー的存在だったのでしょう。

芥川龍之介といえば、人差し指と親指を顎にあてたポーズが有名ですが、そのポーズを真似て撮った写真も残っていますね。

デビュー前は資料が少なく、不明な部分も多い太宰治。

専門家は、太宰の少年時代を知るうえでの貴重な資料と位置づけています。

のちに芥川賞獲得に執念を燃やしたのは、芥川の名を冠した賞であったことが理由のひとつかもしれません。

 

中原中也にからまれる太宰治


戦前・戦後の文豪たちにはおもしろいエピソードがたくさんありますが、お酒が入ると喧嘩をふっかけたり、暴れたりすることで有名な中原中也と、からまれた太宰治の話もそのひとつ。

年齢は中也のほうが2歳年上です。

同人誌『青い花』を創刊するにあたって檀一雄や中也に声をかけた太宰治。

彼らは居酒屋へ繰り出しますが、酔いが回るにつれて中也のいつもの酒癖が太宰に向かいます。

「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」「全体おめえは何の花が好きなんだい?」。

中也を尊敬していた太宰は閉口して、今にも泣きそうな表情をしていたと檀一雄は『小説 太宰治』に記しています。

「何の花が好きか」という中也の問いから、同人誌の名前を話し合っていたのかもしれませんね。

このあと彼らは乱闘に発展。

気がつくと、お店のガラス戸が粉々に砕けていたそうです。

檀一雄によると、太宰の姿はいつの間にか消えていたとのこと。

太宰は中也を避けるようになり、『青い花』は1号で休刊。

しかし中也の死に際しては、「死んでみると、やっぱり中原だ、段違いだ」と、その才能を惜しんだそうです。

このエピソードを念頭において、もう一度中原中也の詩を味わってみたいものです。

芥川賞をめぐる太宰治と川端康成の関係

太宰治の芥川賞への熱い思いがダイレクトに伝わる文章は、『文藝通信』に掲載された『川端康成へ』でしょう。

これは芥川賞落選の不服を選考委員の川端康成に向けて書いた抗議文でもあります。


太宰の素の部分が垣間見える興味深い文章です。

昭和10年、『逆行』で第1回芥川賞の候補に選ばれた太宰治。

選考委員だった作家の佐藤春夫が『道化の華』に注目したのがきっかけでした。

しかし、ここで選考委員に名を連ねていた川端康成が「作者、目下の生活に厭な雲あり」と選評。

乱れた生活態度に釘を刺された太宰は、幾夜も寝苦しい思いをしたと告白。

「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」「刺す」「(川端は)大悪党」といった言葉を書き連ねていることからも、いかに逆上したかがうかがえます。

「小鳥を飼い」うんぬんという文言は川端の短編小説『禽獣』に対する当てこすりとも、川端自身への当てこすりともとれますね。

ちなみに第1回芥川賞の他の選考委員は菊池寛、谷崎潤一郎、室生犀星といった顔ぶれで、受賞作は石川達三の『蒼氓』でした。

一方の川端康成は太宰に対し、「暴言であるならば取消す」と大人の対応。

太宰はまた、第3回芥川賞にあたって、一度は罵倒した川端康成に懇願の手紙まで送っています。

これほど芥川賞を切望したのは名誉挽回はもとより、薬品代の借金返済に充てる賞金が欲しかったためといわれていますが、願いが叶うことはありませんでした。

学生時代の恥ずかしいノートに続いて、芥川賞選考委員への懇願状も公開された太宰治。

SNSには「今さら何の罰ゲーム?」「もうやめてあげて」とコメントするファンの声も。


没後に恥ずかしい過去が露呈すれば、通常は嘲笑と哀れみと誘うところです。

ですが、この人の場合は黒歴史の発覚さえも人間臭い魅力となり、さらなる共感を得るように思えるから不思議です。

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