高橋一三、息子が縁で大学監督。妻と家族、突然の死去。フォームが星飛雄馬、見事な成績

高橋 一三(たかはし かずみ)さんはスクリューボールで活躍をした名選手です。

引退後は息子が在籍した大学の監督に就任するなど幅広く活躍をしていました。

今回は高橋さんの妻や家族、死去や星飛雄馬との関係などを見ていきましょう。

高橋一三のプロフィール

本名:高橋 一三 (たかはし かずみ)

身長:178cm

出身地:広島県府中市

生年月日:1946年6月9日

没年月日:2015年7月14日 (69歳没)

所属球団:読売ジャイアンツ (1965~75) / 日本ハムファイターズ (1976~83)

高橋一三は息子の関係で山梨学院大学の野球部監督に就任

まずは高橋一三さんの山梨学院大学の野球部監督就任について見ていきます。

高橋さんは2009年3月に「山梨学院大学」の硬式野球部の監督に就任していますが、両者を繋いだのは息子であり同高校野球部のOBだった二男の一人さんでした。


一人さんは野球部でキャプテンを務めた人物だったこと、以前に比べてプロとアマチュアの垣根が低くなったことが相まって就任の運びとなったそうです。

また、アマチュアへの指導は資格の問題がありましたが、日本野球協会が高橋さんを「特別審査資格認定者」と認定したことでルール上の問題も取り除かれました。

2014年春に体調不良で監督を退任して顧問になりましたが、在任中に高梨裕稔(2019年よりヤクルトスワローズ)さんらを育てあげた名伯楽としても知られています。

高橋さんにとって監督を務めた約5年間は新鮮かつ、学びの多い時間だったことでしょう。

高橋一三の妻は女優で家族にはプロ野球選手がいた?

次は高橋一三さんの妻や家族についてチェックしていきましょう。

高橋さんの妻は女優の橘 和子(たちばな かずこ)さんといい、ファッションモデルや日活の”渡哲也の相手役募集のオーディション”の合格者として名を馳せました。

ふたりは1969年12月9日に結婚をして大きなニュースとなりましたが、どちらかと言えば地味なタイプだった高橋さんと女優という組み合わせに驚いた方も多いことでしょう。

また、橘さんは結婚と同時に芸能界を引退しているので近況は明らかになっていません。

橘さんには姿 美千子(すがた みちこ)さんという女優の姉がいましたが、1971年3月に読売ジャイアンツの倉田誠さんと結婚をしているので高橋さんにとって義兄になります。

高橋さん自身の家族については情報が無いので何とも言えませんが、妻の姉の結婚によってプロ野球選手(しかも同僚)の義兄を持つという珍しい家族が出来上がりました。

ちなみに、姿さんも結婚と同時に引退をしているので潔い姉妹と言えるかもしれません。

※姿 美千子は芸名で本名は橘 郁子さんです。

高橋一三の死去や死因について

ここでは高橋一三さんの訃報や死因について見ていきます。

高橋さんが亡くなったのは2015年7月14日で、公表されている死因は多臓器不全(心不全)でした。

知人によれば亡くなる一週間前に電話で「近々、入院をする」と話していたそうですが、14日の夕方に体調不良で自宅から緊急搬送されているので入院前に急変したと考えられます。

2009年春から務めていた山梨学院大学の野球部監督も体調不良で2014年春に退任しており、ゆっくりと療養生活を送っていましたが全快することなく旅立ってしまいました。

同僚や関係者も体調が悪いことは知っていたそうですが、まさか69歳という若さで亡くなるとは想像していなかったことから驚きと悲しみの声が多数挙がっていたそうです。

高橋さんは過去に心臓のバイパス手術を受け、その後は肝臓を悪くするなど満身創痍でしたが野球に対する情熱は衰えることなく、まさに魂を燃やして指導をしていたのでしょう。

天は逸材を召し上げると言いますので、高橋さんも野球の神様に求められたのかもしれません。

高橋一三のフォームは星飛雄馬のモデル?

この項目では高橋一三さんのフォームが星飛雄馬のモデルになった件を見ていきましょう。

星飛雄馬と言えば言わずと知れた「巨人の星」の主人公ですが、そのフォームのモデルが高橋さんであったことはファンの間でも意外と知られていないそうです。

ではさっそく、アニメ「巨人の星」のOPを見て星飛雄馬のフォームを確認しましょう。

フォームもさることながら、この音楽はジーンと来るものがありますね。

次は星飛雄馬のモデルとされている高橋さんのフォームを見てみましょう。

投球の際に大きくしなる腕や投げ終わった後の動作も星飛雄馬とよく似ています。

ただ、モデルになったのはアニメ版の星飛雄馬であり、原作の漫画においては”モデルなった実在のプロ野球選手は居ない”と作画を担当した川崎のぼるさんがコメントしていました。

漫画とアニメでは見え方に大きな差が出るので、同じサウスポーで躍動感があった高橋さんのフォームがモデルになったと言うのは決して不思議なことではないでしょう。

高橋一三が築いた見事な成績

最後に高橋一三さんがプロ19年間で築き上げた成績を見ておきます。

1964年11月に読売ジャイアンツへ入団しますが、4年目までは際立った成績を残していません。

しかし、入団5年目となる1969年には逆方向のカーブのような軌道を描く「スクリューボール」を取得し、22勝(19完投・3完封)を挙げて最多勝や最高勝率、沢村賞を受賞。

1969年から73年までの5年間で83勝を記録するなど人並外れた活躍をしてファンに愛されました。

ところが、1974年は2勝、翌年も6勝と低迷したことから1975年オフに張本勲さんとの交換で日本ハムファイターズに移籍し、1981年の日本シリーズでは古巣と対戦をしています。

移籍後は腰痛と闘う日々だったそうですが、1976年に10勝、1981年には14勝を挙げてチームに貢献し、1983年11月10日に引退を発表して19年に渡った選手人生に幕を下ろしました。


物静かに見える雰囲気とは裏腹にダイナミックなフォームから150kmを超える剛速球を投げ、スクリューボールの取得によって覚醒した稀代の名投手だったと言えるでしょう。

※高橋一三の通算成績 (167勝-132敗-12セーブ / 防御率3.18 / 奪三振1997)

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