徳川昭武、渋沢栄一との関係。パリ万博から帰国後は隠居。寂しい晩年について

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の弟だった徳川昭武(とくがわ あきたけ)。

2021年の大河ドラマ『青天を衝け』では、板垣李光人さんが演じていましたね。

ドラマの主人公・渋沢栄一とは、具体的にどのような関係があったのでしょうか。

また昭武が「パリ万国博覧会」から帰国後に隠居したという情報、晩年の様子について見ていきます。

徳川昭武のプロフィール

初名:松平昭徳

生年月日:嘉永6年9月24日(1853年10月26日)

死没:1910年7月3日

身長:不明

出身地:江戸駒込(現在の東京都豊島区)

徳川昭武と渋沢栄一の関係は訪欧使節団の団長と会計係

1867年2月(慶応3年1月)に、フランスへ幕府から訪欧使節団が派遣されました。

昭武は使節団の団長として渡仏します。

かつてない大規模なイベント「パリ万国博覧会」に、江戸幕府の将軍の代理として参加することになったのです。

日本を代表してパリに渡った昭武は、このときわずか14歳でした。

到着後は命令通りパリ万国博覧会に参加し、フランス皇帝のナポレオン3世との会見も果たしました。

訪欧使節団の会計係だった渋沢栄一


昭武率いる訪欧使節団の会計係が、後に偉大な実業家となる渋沢栄一でした。

20数名の随行員の1人として、27歳の渋沢が選ばれたのです。

渋沢は金銭の出納係である「勘定方」として、お金の貸付や流通に関する業務のプロとして活躍していました。

昭武はパリ万博に参加後、長期留学を計画していたのですが、そのためにはお金の管理や雑事を担う人材が必要でした。

渋沢は最もその役目に適しているとして、将軍・慶喜から推薦されたのです。

こうして会計係および雑事担当として渡仏した彼は、その後の人生が大きく変わることになりました。

渋沢はパリ万国博覧会に参加後、欧州各地を視察し、欧州の産業発展や高い軍事力に驚きます。

これまで諸外国を排斥する「攘夷論者」だった彼は、あまりに日本が遅れていることを肌で感じ、考え方を180度変えたのです。

渋沢は帰国後、日本が列強に取り残されないよう海外の経済活動を参考に、近代的な資本主義社会を作り上げました。

昭武に随行して海外を知ったことで、見事に運命を切り拓けたのです。

徳川昭武はパリ万博から帰国後に隠居

そもそも日本がパリ万国博覧会に参加した背景には、列強諸国による覇権争いがありました。

日本はフランスと通商条約を結んでいたため、ナポレオン3世が主催する万博に参加するのが形式的に必要だったのです。

また昭武にとっては長期留学という目的もあったため、語学や歴史、美術などの勉学にも取り組んでいたそうです。

しかし彼らは2年ほどで帰国せざるを得なくなりました。

大政奉還によって江戸幕府が倒れ、鳥羽伏見の戦いが起こります。

日本の状況が混とんとする中、昭武は留学を中断して帰国し、水戸藩最後の藩主となりました。

徳川昭武は30代で隠居


昭武は明治時代に入ると、陸軍戸山学校の教官となりました。

1876年(明治9年)には、中途半端に終わった留学をやり直すべく再度渡仏。

帰国後は明治天皇に奉仕しました。

一方渋沢は明治政府で大蔵省に入り、官職を辞した後は実業家として、欧州で学んだ経済の仕組みを日本で採り入れるのです。

渋沢が華々しく活躍する中、昭武は1883(明治16年)に隠居しました。

わずか30歳で隠居した理由は、激動の時代を生きて、すっかり心身が疲弊してしまっていたためでしょう。

さらに妻の盛子が、出産後に亡くなったショックも大きかったはずです。

時代に翻弄された自身の境遇を嘆き、ストレスのない生活を送りたくなったに違いありません。

徳川昭武は晩年を松戸の戸定邸で過ごす

昭武は隠居後、松戸にある戸定邸(とじょうてい)で、生母の秋庭と共に暮らし始めました。

次男の武定が子爵となってからは、「松戸徳川家」が創設されます。

若くして隠居した昭武は、自転車や写真、狩猟などの趣味に興じて過ごしたそうです。

戸定邸とその庭園は、今では国指定重要文化財および国指定名勝として知られています。

整備された自然豊かな観光地であり、桜や紅葉を楽しめるため、季節を問わず散策におすすめですよ。

隣接する戸定歴史館には松戸徳川家の伝来品や、パリ万国博覧会の資料が展示されています。

さらに年3回、昭武に関する展覧会も開催しているそうです。

資料を通して昭武の動向を知れば、激動の時代に翻弄された彼の気持ちに寄り添えるかもしれませんね。

徳川昭武の寂しい晩年

昭武は隠居生活の中で、兄の慶喜をはるばる静岡に訊ね、共通の趣味である写真と狩猟を楽しんだこともありました。

悠々自適な晩年にも思えますが、跡取りだった甥の徳川篤敬が44歳の若さで亡くなる不幸にも見舞われています。

遺児の圀順が水戸徳川家の当主となると、昭武が後見としてサポートしました。


そして1910年(明治43年)7月3日、東京府向島の旧水戸藩下屋敷「小梅邸」で58年の生涯を終えました。

彼が急速に発展する日本の様子を見て、どんな感慨を抱いていたのか気になりますね。

きっと昭武は、人一倍ストレスを感じやすい人だったのでしょう。

76歳まで生きた慶喜に比べて敏感だったからこそ、激動の時代に心身を疲弊させ、早々に隠居したに違いありません。

揺れ動く日本の様相を遠目に見つつ、趣味に没頭しながら晩年を過ごすことにしたのでしょうね。

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