徳川慶喜、最後の日々と死因。葬儀は神式、墓は谷中霊園に眠る

近年では再評価する気運も高まっている最後の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)。

じつは維新後の余生のほうが長かった慶喜の最後の日々に迫りながら、死因や葬儀についてもみていきます。

谷中霊園内にある墓が独特な形状をしているのはなぜでしょう。

徳川慶喜の最後の日々と死因

将軍職を返上したのち、45年の余生を送った徳川慶喜。

「朝敵」の汚名を着せられたものの、一部の旧幕臣らの尽力によって名誉回復が進んでいました。


明治30年(1897)に東京・巣鴨に移り住むまで、明治期の大半を徳川家康ゆかりの静岡で過ごしています。

晩年は写真撮影、自転車、油絵、鉄砲猟、乗馬など趣味三昧の日々。

食事はパンと牛乳を好んでいたそうです。

失業の憂き目にあい、困窮していた旧幕臣のなかには、そんな慶喜を快く思わない人間も。

隠棲生活では社会との交渉を避け、面会するのは幕臣だった渋沢栄一ら限られた人間のみでした。

のちに東京に居を移し、貴族院議員として一時的に政界に復帰しますが、7男の慶久に家督を譲ると貴族院議員を辞職。

隠居後は再び趣味に没頭する生活がはじまります。

最後の地となったのは、明治34年(1901)に転居した小石川の屋敷。

大正2年(1913)11月22日、慶喜は感冒をこじらせ、急性肺炎を併発して生涯を閉じました。

満76歳は、徳川家の歴代将軍では最も長寿。

辞世の句をご紹介しましょう。

「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」

意味は、この世での人生というのは、短い夢みたいなものと聞いていたけれども、思えば長い年月であった、というもの。

平穏で自適な歳月を長く送ってきた慶喜にとっては、激動の幕末がはるか遠い昔のように映ったのかもしれませんね。

葬儀は皇族と同じ神式だった

大正2年は例年より寒い年で、葬儀の数日前には雪が降り、地面も凍結していたそうです。

慶喜の訃報は、江戸時代の名残の終焉を物語る象徴的な出来事でした。

葬儀が徳川家伝統の仏式をとらず、異例の神道様式で執り行なわれたのは本人の遺志によるもの。

その理由は、朝敵である自分を許し、公爵位を授けてくれた明治天皇への敬意とされていますが、果たして本音はどこにあったのでしょう。

葬儀は寛永寺の斎場で行われ、その後、谷中霊園内の墓所に葬られました。


寒風のなか、上野から谷中までの沿道は最後の将軍の葬列を見送る大勢の人であふれ、見物人めあての茶店まで。

沿道の家々は榊や花で門を飾って哀悼の意を表したそうです。

慶喜の柩は唐破風型の桧(ひのき)の白木造りに金色の葵紋が打たれたもの。

遺族の男性は狩衣(かりぎぬ)姿に烏帽子、女性は白無垢の紋服で、そのあとに旧幕臣の列がつづきました。

徳川慶喜の墓は谷中霊園

徳川慶喜の墓は谷中霊園内にあります。

谷中霊園は元内閣総理大臣の鳩山一郎、画壇の巨匠・横山大観らが眠る都立の霊園。

神道式の埋葬を希望した慶喜の墓は皇族と同じような円墳状です。

東京都教育委員会の説明によると、直径1.7メートル、高さ0.7メートルほどの玉石畳の土台部分があり、その上部が円墳状とのこと。

隣りには正室の美賀子が並んでいます。

墓所には側室だった新村信と中根幸の墓もあり、慶喜の夭逝した子供たちの合祀墓も。

子だくさんで知られる慶喜ですが、彼らの多くは新村信と中根幸との間にもうけた子供たちです。

謎めいているのが、勝海舟の家に養子に出した10男・精(くわし)夫妻の墓まであること。

他家の跡取りにするべく養子に出したはずの息子が、なぜ妻とともに徳川慶喜家の墓所に眠っているのでしょう。

精は養父のそばでなく、実父母のそばに葬られたことになりますね。

およそ10万平方メートルの霊園内には、寛永寺や天王寺の墓地も入り組んでいるのだそう。


慶喜の墓は徳川家菩提寺である寛永寺でも増上寺でもなく谷中霊園ということで、まったく関係のない場所に埋葬された印象が強いですが、墓所があるのはもともと寛永寺の敷地という情報も。

朝廷と徳川家両方の血筋をもち、聡明さゆえに周囲から期待され続けた徳川慶喜。

進みたい道を進めなかった運命はもちろん、自分の代で徳川将軍家を終わらせなければならなかった複雑な思いは生涯つきまとったことでしょう。

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