徳川慶喜は過小評価?すごいと評判。大政奉還の思惑、渋沢栄一は家臣

15代目の将軍として歴史に名を刻んだ徳川慶喜(とくがわよしのぶ)さん。

きっと誰もが一度はその名前を耳にした事がある事でしょう。

徳川慶喜のプロフィール

幼名:松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)、のちに松平昭致(まつだいら あきむね)と改名

生年月日:1867年1月10日(慶応2年12月5日)

死没:1913年11月22日

身長:推定150cm前後

出身地:江戸小石川

最終学歴:弘道館

徳川慶喜の評価はあまり良くない?

約260年も続いた江戸幕府の最後の将軍として知られる徳川慶喜さん。

常陸水戸藩の第9代藩主、徳川斉昭さんの七男として誕生。

幼少期から優秀だった事から12代将軍、徳川家慶さんの意向により御三卿の一つ、一橋家の養子に。


そして若干11歳にして一橋家の当主となりました。

その後、たびたび一橋家を訪れていたという徳川家慶さん。

後の将軍候補として高く評価していた事が良く分かります。

一時は14代将軍候補として名前が挙がるも、将軍となったのは徳川家茂さん。

この将軍就任は当時、大老だった井伊直弼さんの意向が強く反映されたものでした。

こうして大きな後ろ盾を持った井伊直弼さんは勅許を得ることなく日米修好通商条約に押印。

日本側に不利な条約だった事から「不平等条約」とも言われる同条約。

この条約締結に納得がいかず、日本の行方に危機感を抱いた徳川慶喜さん。

同士達と共に江戸城を訪れ詰問すると隠居処分となってしまいます。

後に「安政の大獄」と呼ばれるこの出来事。

桜田門外の変で井伊直弼さんが暗殺された事で隠居処分は解除。

そして徳川慶喜さんは将軍後見職に就任。


その後、禁裏御守衛総督を経て1866年に第15代となる将軍に。

ただ、薩長同盟が結ばれた事も影響し、政権を朝廷に戻す大政奉還を決意。

王政復古の大号令、江戸無血開城を経て江戸幕府は終結。

徳川慶喜さんは日本史上で最後の将軍として歴史にその名を刻む事となりました。

そんな徳川慶喜さんですの評価はこれまでは決して良いとは言えないものでした。

悪評の最大の原因と言われるのが「鳥羽・伏見の戦い」。

新政府軍と旧幕府軍が激しい争いを繰り広げた戊辰戦争の初戦として知られる鳥羽・伏見の戦い。

旧幕府軍の大将を務めた徳川慶喜さんは「決して退くな」と兵に厳命。

ところが自身は戦場に姿を表すどころか江戸へ逃亡してしまいます。

大将が逃亡した事もあり旧幕府軍の士気は大きく低下し大敗。

そして戊辰戦争も新政府軍の勝利に終わっています。

兵を見捨てて逃げるなんて大将としてあるまじき行為。

そんな人が高く評価されるわけがありませんよね。

近年になってすごいと評価される理由とは

結果的に約2世紀半も続いた徳川幕府を終わらせた徳川慶喜さん。

前述の通りこれまでは低く評価されがちでした。

ただ、近年になってその評価に大きな変化が。

「実はすごい人物だったのでは」と高く評価されるようになってきたんです。

黒船来航に代表されるように海外の脅威にさらされていた当時の日本。

そのような時代のため徳川慶喜さんが最も恐れていたのが内乱。

内乱で国力が低下した状態で海外に攻め込まれたらひとたまりもありません。

そのため内乱を防ごうと徳川慶喜さんは様々な策を講じていたようです。

ただ、その思いを全ての人が共有する事は出来ず。

そして起こってしまったのが戊辰戦争。

ですが戊辰戦争でも極力無駄な血を流さないという思いは変わらず。

実は鳥羽・伏見での戦いで逃亡したのも争いを長期化させないため。

それは徹底抗戦することなく新政府軍に江戸城を開城した事からも明らか。

「自分が汚名を着せられようと無駄な血を流さない」。

徳川慶喜さんの行動の裏には常にこのような強い意志があったんです。

自らの名誉のためでなく、日本の事を考えて行動する。

自分の事を優先する昨今の政治家には到底真似する事は出来ないでしょう。

こんな素晴らしい人物が今の時代にいてくれたら日本はもっとより良い国になっていたはず。

そう思えてなりません。

大政奉還に隠された思惑とは

「徳川慶喜」と聞いて多くの人が思い浮かべるであろう大政奉還。

薩長が武力による倒幕の動きが活発になっていきた事から決意したと言われています。

もし大政奉還をしなければ激しい内乱が起きていたはず。

それを防ぐためのものだった事は間違いないでしょう。

ただ、その他にも隠された思惑があったと言われているんです。

それは「徳川家の権威の継続」。

約260年続いた江戸幕府で政治を担っていたのは徳川家。

そのため朝廷に政権を渡したとしても上手く担っていけるかは不安が残るところ。

そこで徳川慶喜さんは新政府になっても主導権を担う事を画策していたと言われています。

実際、大政奉還後も権威は残されたままだったようです。

内乱は抑えられ、実権も徳川家が握ったまま。

徳川慶喜さんだからこそ導き出せた解決策と言っても過言ではありません。

もし、戊辰戦争さえ起きなければ徳川家の時代はもう少し続いていたのかも。

今と全く違った日本となっていた事は間違いないでしょう。

渋沢栄一も家臣の一人だった

幼くして一橋家の当主となり、後に将軍となった徳川慶喜さん。

それだけに家臣も非常に優れた人ばかり。

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一さんも家臣だった一人。

平岡円四郎さんの推薦により徳川慶喜さんの家臣となった渋沢栄一さん。

その後、随員としてパリを訪れた時に近代化の進んだ街並みに衝撃を受けたそうです。

そして近代化の要因として学んだのが「株式会社」の仕組み。

帰国後、日本にも株式会社制度を実践しようと奮闘。

また、株式会社の制度を使い日本で初となる銀行を設立。

こうした活動がきっかけとなり日本経済は急速に発展。

渋沢栄一さんの名前も人々に知れ渡るようになりました。

もし、徳川慶喜さんの家臣になっていなければパリを訪れる事はなかったでしょう。

パリを訪れていなければ株式会社の仕組みを知る事もなかったはず。


そして日本の近代化は世界から大きく遅れを取っていた事でしょう。

そう考えると渋沢栄一さんと徳川慶喜さんの出会いが日本にとって大変重要な出来事だったかが良く分かります。

二人が出会わなかったらどんな世の中になっていたのでしょうね。

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