曽野綾子の息子・三浦太郎は文化人類学者。娘や孫について。実家の家族、父親が大物

『遠来の客たち』『砂糖菓子の壊れるとき』などの代表作がある作家の曽野綾子(その あやこ)さん。

戦後、優れた私小説や短編小説を多く発表した「第三の新人」の1人に数えられています。

夫で作家の三浦朱門さんとの間には、息子である三浦太郎さんをもうけました。

太郎さんも両親と同じく優れた文筆家で、文化人類学者・大学教授として活動しています。

今回は曽野さんの家族について、太郎さんのほか、娘さん、お孫さんの詳細も確認しましょう。

さらに実家の家族について、父親が大物だったという情報に迫ります。

曽野綾子のプロフィール

カトリックの洗礼名:マリア・エリザベト

本名:三浦知壽子

生年月日:1931年9月17日

身長:不明 ※マリリン・モンローの検死時の測定値「166.4cm」と同じと称していた

出身地:東京府南葛飾郡本田町(現在の東京都葛飾区立石)

最終学歴:聖心女子大学文学部英文科

曽野綾子の息子・三浦太郎は文化人類学者

曽野さんの息子である三浦太郎さんは、1955年生まれの文化人類学者で、中部大学の教授を務めてきました。

文化人類学とは、人間の生活様式、具体的には生活や活動のあり方を研究する学問です。


現場調査である「フィールドワーク」とその結果を論文に書く「エスノグラフィー」が主な仕事。

太郎さんの専門はフィリピンのイスラーム社会やスールー王国、北京市の分析などですから、海外でフィールドワークを重ねてきたのでしょう。

東京都立三田高校を卒業後、南山大学文学部人類学科に進学します。

1979年3月に南山大学大学院の人間文化学研究科人類学専攻で修士号を獲得しました。

1984年には同大学院の博士課程を単位取得満期退学し、英知大学(後の聖トマス大学)や中部大学などで教授となりました。

研究の傍ら、南山大学に在学中から女性週刊誌「女性セブン」でコラムを執筆していたそうです。

作家の両親の才能を受け継いでいるはずですから、元々文章力が高かったに違いありませんね。

また研究だけではなかなか食べて行くのは難しいのが現実です。

原稿料を稼ぐため、研究の合間に執筆活動に取り組んでいたのではないでしょうか。

太郎さんは幼少期から文化人類学者を目指しており、その実情も理解していました。

ある日の食卓で、一家は知人から届いた高級な鮎を食べることになります。


そのとき曽野さんは「先が短い」という理由で、年齢が高い人から順番に鮎を食べるというルールを作りました。

すると太郎さんは「僕は将来、稼げない文化人類学者になるんだから、今のうちに鮎を食べたい」と言ったのです。

まだ子供でありながら、厳しい仕事に就く覚悟を決めていたことがうかがえますね。

太郎さんの高校時代から大学時代については、曽野さんが小説『太郎物語』に描いています。

思春期の悩みを抱える息子の姿を描いた作品は話題となり、1980年には同作が原作のNHKドラマ『太郎の青春』が放送されました。

翌年にはドラマの続編『太郎の卒業』も放送されるほど好評を博します。

自身の青春時代を母親に小説化され、ドラマ化までされた太郎さんは、どのような気持ちだったでしょう。

きっと照れ臭かったものの、つい周囲に自慢したくなることも多かったのではないでしょうか。

曽野綾子に娘はいない様子

曽野さんに息子さんがいることはわかりましたが、娘さんはいるのでしょうか。

調べてみても娘さんに関する情報は見当たりませんでした。

おそらく息子の太郎さんしか、子供はいなかったのでしょう。

実の娘はいないものの、太郎さんの妻・三浦暁子さんという義理の娘さんがいます。

暁子さんも義理の両親と同じく、作家として活動してきました。

阪神淡路大震災の被災体験『大震災、主婦の体験』やプロ野球選手の伝記『梶本隆夫物語 阪急ブレーブス不滅の大投手』などを執筆。

三浦家には多くの優れた書き手がいることがわかりましたね。

曽野綾子の孫はイギリス在住

太郎さんには何人か子供がいるため、曽野さんには複数の孫がいることになります。

人数や年齢などの詳細はわかりませんが、2023年現在はイギリスで暮らしているようです。

曽野さんの夫である三浦朱門さんの臨終のときには、孫たちがイギリスから帰国して、病院へ駆けつけています。

妻と息子、孫たちに看取られた朱門さんは、穏やかに91年の生涯を終えました。

愛する家族に見守られながら旅立てたのですから、一家の大黒柱にとって理想的な最期だったと言えますね。

曽野綾子の実家の家族。父親はヤマト化学の専務

曽野さんの実家の家族にも大物がいました。

父親は大和護謨製作所(現在のヤマト化学工業株式会社)の専務を務めた町田英治郎です。

曽野さんは重役の父親を持つ裕福な家庭で育ちました。

しかし感情的な性格の父親から、いつも曽野さんは母親とともに暴行を受けていたそうです。

幼稚園から大学まで通ったお嬢様学校・聖心女子学院で過ごす時間は、非常に穏やかで楽しかったそうです。

しかし家に帰ると父親から暴行を受け、ときには腫れた顔のまま登校することもありました。

その後曽野さんは、両親が60代後半になったとき、2人を離婚させています。

両親の離婚後は母親を引き取って懸命に面倒を見たそうです。


母親はようやく暴力に怯えずに済む、平穏な生活を送れるようになりました。

曽野さんは父親の暴力から自分と母親を守るため、自立したしっかり者の女性として大成したのですね。

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