田山幸憲の年収は低かった。中国人との逸話と名言。死因は舌癌、生涯独身で母親と2人暮らし

パチンコライター界のレジェンドと言われる田山幸憲(たやまゆきのり)さん。

東大中退という学歴を持ちながらも年収は決して高くはなかったそうです。

きっと独身で母と二人暮らしだった事も高給を望まなかった理由の1つでしょう。

今も語り継がれる中国人とのエピソードや名言の数々。

死因となった舌癌についてもご紹介したいと思います。

田山幸憲のプロフィール

本名:田山幸憲

生年月日:1946年10月3日

出身地:東京都

最終学歴:東京大学文科三類中退

田山幸憲は年収が意外と低かった

東京大学中退という異色の経歴を持つパチプロの田山幸憲さん。

文章を書けるパチプロがまだ珍しかった時代に数々の雑誌で執筆活動。

東大中退という学歴もあって「日本で一番有名」とも言われています。

学歴や知名度を考えるとかなりの稼ぎがありそうですよね。


ところが田山幸憲さんは「月収はせいぜい20万円」と語っています。

この発言が本当であれば年収は約240万円。

決して高給取りとは言えない金額ですよね。

ただ、田山幸憲さんがパチンコを打つのは1日に3時間〜4時間。

打つ時間を増やせば収入が増える事はもちろん分かっていました。

ですが、お金に執着心がないのか「生活に必要最低限のお金があれば良い」と考えていたようです。

そもそも田山幸憲さんはパチプロという職業に否定的。

あくまでもパチンコは遊びで仕事ではない、と考えていたんだとか。

そのためパチンコ一本で生計を立てるのではなく、執筆活動も行っていたのでしょう。

パチンコはあくまでも執筆業のため。

自分にそう言い聞かせてパチンコを打ち続けていたのかもしれません。

中退とはいえ東大に入る学力があった田山幸憲さん。

もっと収入が多い仕事に就く事も出来たはず。

それでもパチプロを辞めなかったのはきっとパチンコが好きだから。

一人で無心になって台と向き合う時間も好きだったのかもしれません。

中国人との純愛が話題に

ほぼ毎日飲むほどお酒が好きだったという田山幸憲さん。

ある時、溝の口のスナックで出会った20歳年下の中国人のコウさんに一目惚れ。

それから週に4日の頻度で来店。

コウさんが勤務する店を変えると、そちらのお店に通うなど親密な関係は続きました。

ですが、膠原病の持病があったコウさん。

膠原病が悪化した事で入院するため中国へ帰国する事となってしまいます。

帰国後は手紙でやり取りをするなど二人の交流は続いたそうです。

その後、治療を続けるも病状は改善せず手術を受ける事に。

ですが問題となるのが日本円にして150万円という多額の費用。

ただ、日本に出稼ぎに来ていたコウさんにそんな大金を用意する事は困難。

そのため田山幸憲さんは趣味の競輪と高いお酒を飲む事を辞めて送金していたそうです。

きっと元気になって再会する事を願って送金を続けていたのでしょう。

ところがコウさんの病状は改善する事なく亡くなってしまいました。

コウさんの死を知った田山幸憲さん。

中国に見舞いに行かず、日本で静観していた自分を嫌悪する事も。

それでも「一線を守り、深く踏み込まない事が美学」、「コウさんも納得していたはず」と言い聞かせていたようです。

まるでドラマや映画のような純愛ストーリー。

不器用な人間臭さも田山幸憲さんの魅力となっているのでしょうね。

田山幸憲が残した名言の数々

長年、パチプロとして活躍した田山幸憲さん。

その経験を体現するかのような数々の名言を残しています。

タテの比較、ヨコの比較

田山幸憲さんが残した言葉で最も有名と言われるのがこの名言。

「タテの比較」とは前日までの釘と比較すること。

そして「ヨコの比較」は他の台との釘の比較。

パチンコはギャンブルなので当たるかどうかは運次第。

ですが、チャッカ—に多くの球が入れば必然的に当たる確率は高くなります。

そのため釘を見極めて打つ台を決めるのが重要ということ。

基本中の基本かもしれませんが、田山幸憲さんの言葉となると説得力が違いますよね。

おそらく田山幸憲さんは釘を見極める眼が人一倍だったのでしょう。

だからこそ第一線で活躍し続ける事が出来たのだと思われます。

シメシメルック

こちらも田山幸憲さんが残した有名な名言。

「シメ」とは釘が締まっている状態のこと。

つまり「シメシメルック」は釘が締められている台ばかりという事を表す言葉です。

パチンコを打つ事が好きな人達であれば当たりが来なくても気にしないのかもしれません。


ですがパチプロにとっては当たらないのは死活問題。

かといって執筆業を生業にしている事からあまり強い言葉を使うのも躊躇われる。

きっとそんな時にこの言葉を思いついたのでしょう。

これらの他にも「ジグマ」や「デキた」、「ケも無い」など幾つもの言葉を生み出した田山幸憲さん。

状況を如実に表しているだけでなく、口に出しやすく真似もしやすいものばかり。

このような新語を次々に生み出すからこそ数多くの雑誌から引っ張りだことなっていたのでしょうね。

田山幸憲の死因は舌癌

2001年7月4日に54歳という若さで亡くなった田山幸憲さん。

死因となったのは舌癌でした。

初めて舌に異変が生じたのは1995年。

あまりに痛みが激しい事から病院に行くと舌癌との診断。

その後、3か月に渡って入院。

舌の4分の1を切除し太腿の筋肉を移植するという大手術を受けています。

これで寛解すると思いきや2000年5月に舌癌が再発。

ただ、今回の手術が前回以上の大手術であること。

手術後に食べたり話すことが出来なくなる可能性があることから手術を拒否。

そのため放射線と抗がん剤の治療を受ける事となりました。

そして東大病院の分院に入院し治療を受ける事に。

退院後は週に2度、玉川病院に通い丸山ワクチンの注射を続けていたそうです。

ですが癌が完治する事は無く2001年7月4日に死去。

苦しくも田山幸憲さんが好きだったパチンコ機「ナナシー」と読める日。


そして葬儀は7のゾロ目である7月7日に行われました。

亡くなる瞬間、そして亡くなってからもパチンコとの縁を感じさせる田山幸憲さん。

きっとパチンコの神様にも愛されるパチプロだったのでしょうね。

田山幸憲は母と2人暮らしだった

結婚する事なく生涯独身を貫いた田山幸憲さん。

パチプロという職業柄、家庭を持つ事を躊躇った事が独身の理由なんだとか。

そして実家で母親と2人暮らし。

自宅が持家だった事から月に20万円という稼ぎでも十分暮らしていけたようです。

ただ、貯蓄が十分では無かったようで老朽化した自宅をリフォーム出来ず。

そのため自宅の土地を売って賃貸のマンションに引っ越しています。

なお、田山幸憲さんの最後を看取ったのも母親でした。

東大にまで行きながらパチプロとなり親よりも早く他界。

傍から見ると親不孝と思わずにはいられません。


ですが、母親から見れば何物にも代えがたい大切な息子である事は間違いありません。

もし、愛想を尽かしていれば家を追い出しているはずですよね。

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