梶原一騎の死因と失意の晩年。身長は?弟・真樹日佐夫も漫画原作者

『巨人の星』『タイガーマスク』『あしたのジョー』など、闘う男の姿をドラマティックに描いた傑作を多数残した漫画原作者の梶原一騎(かじわら いっき)さん。

1987年に50歳という若さで死去しましたが、死因はなんだったのでしょう。

何本もの作品を抱えるヒットメイカーから一転し、ほぼ社会的な抹殺にまで追い込まれた晩年についても振り返ってみたいと思います。

梶原一騎さんといえばコワモテの風貌にサングラス、堂々とした体躯で知られますが、実際の身長はどれくらいあったのでしょうか。

また『サンデージャポン』のサンジャポファミリーとしてもおなじみだった弟・真樹日佐夫さんについてもまとめました。

梶原一騎のプロフィール

本名:高森朝樹

生年月日:1936年9月4日

死没:1987年1月21日

身長:推定178~180cm

出身地:東京市浅草区石浜(現在の東京都台東区橋場)

最終学歴:東京都立芝商業高等学校中退

梶原一騎の死因について

スポーツ劇画ブームを巻き起こし、子供だけでなく大人の心もつかむ一方で、業界においてはコワモテで通っていた梶原一騎さん。

その作風は、主人公が血を吐くような努力の末に成功をつかむも、やがては再起不能に陥るか死を迎えるという破滅的なものがほとんどでした。

作風のみならず、ご本人も破滅型の人間だったといわれており、その型破りな生き方やスキャンダルで世間の耳目を集めることに。


1983年5月25日、梶原一騎さんは『月刊少年マガジン』副編集長への暴力行為で逮捕され、2か月の勾留を経て保釈されます。

しかし長年の暴飲暴食と不摂生がたたって、身体は悲鳴をあげていました。

8月8日、山の上ホテルでうなぎとステーキを食した梶原さんは、直後に昏倒。

緊急入院した病院で告げられたのは、死亡率が100パーセントに近い壊死性劇症膵臓炎でした。

重篤な病気であるうえに、胆石を放置し続けたために周辺の臓器まで病んでいたそうです。

梶原さんは四度の手術に臨むことになり、四度目の時には余命2時間の宣告を受けました。

死の淵からの生還は、まさに九死に一生を得たという表現がぴったりです。

体重は30キロ近くも落ち、退院時はげっそりとやつれていたとのことです。

その後、梶原さんは漫画原作者引退を宣言。

自伝漫画『男の星座』の連載がスタートしますが、1987年の年明け早々に体調を崩して再び入院。

1月21日に東京・新宿区の東京女子医科大学病院にて死去しました。

直接的な死因ははっきりしていませんが、壊死性劇症膵臓炎が梶原さんの命を縮めたことはまちがいないでしょう。

「吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん」という辞世の句を残していたことを考えると、自らの死期を悟っていたのかもしれません。

『男の星座』が未完に終わったのは残念です。

梶原一騎、スキャンダルと失意にまみれた晩年

昭和を代表する漫画原作者であり、日本の漫画史に燦然と輝く作品群を残した梶原一騎さん。

ですが、晩年は栄光の時代から一転、奈落の底へ突き落とされることになりました。

その引き金になったのが『月刊少年マガジン』副編集長への傷害事件です。

この逮捕によって、過去に起こしたクラブホステスへの暴行未遂事件、恐喝事件、女性スキャンダルなどが次々と明るみに。

その結果、連載中の作品は打ち切られ、単行本はことごとく絶版になりました。

梶原さんはメディアのバッシングを浴び続け、社会的な抹殺に近い状況にまで追い込まれて、作品の評価も地に落ちてしまいます。

釈放後には、壊死性劇症膵臓炎という大病が襲いかかります。

一度は奇跡的な生還を果たしたものの、50歳の短い生涯を終えることになりました。

かつて梶原作品に胸を熱くした元少年たちは、原作者の失意にまみれた寂しい晩年に驚いたことでしょう。

巨漢の梶原一騎、身長は?

小学生時代から体格がよく、太り気味だったという梶原一騎さん。

弟の真樹日佐夫さんはそんな兄について、父方の知的な遺伝子と、母方の大柄で激烈な気性の遺伝子の合作と表現しています。

身長は公表されていないようですが、身長がわかっている人と並んで写った写真などから、おおよそ178センチメートルから180センチメートルと推測されていますね。

令和の時代の感覚なら、たしかに大柄ではあるけれど、とび抜けて高身長というわけではありません。

ですが、梶原一騎さんは1936年生まれです。

昭和の時代には大男の印象を周囲に与えていたでしょう。

胸を反らして、肩で風を切るように闊歩する姿は迫力満点でした。

ですが、それを梶原さんなりの強がりや虚栄心の表れととらえ、むしろ憎めないと感じていた人も多かったといいます。

弟・真樹日佐夫は小説家で漫画原作者

梶原一騎さんには二人の弟がいます。

すぐ下の弟は小説家・漫画原作者・真樹道場宗師として活躍した真樹日佐夫さん。

本名を高森真土(まつち)さんといいます。

末弟は『昭和兄弟模様』を出版した高森日佐志さん。

弟たちとは強い絆で結ばれており、最期のときまで支え合っていました。

広く知られているのは、高森三兄弟の真ん中にあたる真樹日佐夫さんでしょう。

兄同様、サングラスがトレードマークの真樹日佐夫さん。

やはり兄と同様に少年時代はかなりヤンチャだったようで、鑑別所・少年院を経験しています。

のちに兄の紹介により極真会館に入門し、大山倍達総帥と義兄弟の契りを結んで、総本部の師範代に。

ところが、やがて高森兄弟は極真会館と決裂。

真樹さんは自らの門派・真樹道場を設立して独立します。

梶原一騎さんが小説家志望だったにもかかわらず大成しなかったのに対し、高森真士(たかもり しんじ)の筆名で書いた『兇器』 でオール読物新人賞を受賞するなど、小説家としてもおなじみですね。

2012年1月2日、71歳の真樹日佐夫さんは神奈川の逗子マリーナにてヨットへ乗船しようとして突然倒れ、救急搬送。

その日のうちに帰らぬ人となりました。


死因は急性肺炎と発表されています。

スポ根ものというジャンルを確立し、劇画ブームを牽引するとともに、日本の漫画界に多大な影響を与えた梶原一騎さん。

名声の陰にはダーティーなイメージがつきまとい、醜聞も絶えませんでしたが、こうした生き方の振り幅があれだけの名作群を生んだのではないかとも思えます。

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