女性のシンガーソングライターとしては草分け的な存在として知られる五輪真弓さん。
1980年に96万枚のセールスを記録した「恋人よ」は、40年以上経った2023年現在も別れ歌の定番ソングとされています。
今回は五輪真弓さんの過去に注目し、学歴について、また両親、実家でのエピソードやフランス語のレコードの話題についてお伝えしていきます。
五輪真弓のプロフィール
本名:鈴木眞弓
生年月日:1951年1月24日
出身地:東京都中野区
職業:シンガーソングライター
ジャンル:ポップ
レーベル:ソニーミュージックダイレクト
五輪真弓の学歴は高卒で東京YMCAを退学の過去
五輪真弓(いつわまゆみ)さんは他の歌手とは違う、かなり異色なデビューを果たしていました。
シングルとアルバムの同時発売のデビュー。
そのレコーディングがロサンゼルスで行われたものだったのです。
レコーディングには、五輪さんの歌に感銘を受けた海外の有名アーティストも参加。
【NEW ARRIVAL】
のちに「恋人よ」でヒットを遂げる五輪真弓1972年の1stアルバム。キャロルキング、チャールズラーキーらが参加したL.A録音。憂いを帯びたメロディとアシッドフォーク的なヴォーカルは少しダークな印象も受けますがその説得力は初作にしてすでに貫禄十分!https://t.co/cXvHSHsiQO pic.twitter.com/1YyxX6ZDki— パライソレコード (@paraisorecords) January 30, 2019
そのアルバムの成功を見た日本のアーティスト達も海外でレコーディングするようになっていたのだとか。
つまり五輪さんがその先駆者となるわけですね。
そんな五輪さんのデビュー前の学歴は高校を卒業後、専門学校に進学。
出身高校は都立桜水商業高等学校ですが、2004年に都立杉並総合高等学校として併合されています。
そして高校卒業後に入学したのが、東京千代田区神田にあった東京YMCA英語専門学校でした。
将来への目標がなく「とりあえず得意なもの」という理由で決めた進学は、わずか半年で退学してしまうことになります。
集団行動が苦手なこともあり、専門学校の雰囲気に馴染めなかったようです。
「私って、わりと集団行動が苦手でなんか外れちゃうんです(笑)。それで息苦しくなって半年後に学校を辞め、ギターの弾き語りを始めました。」
ギター弾き語りのアルバイトをしたり、小劇場で歌うなどの音楽活動をはじめたのはその後のことでした。
学歴よりも音楽の道を選んだ五輪さん。
もし学歴を優先させ、音楽活動に影響があったとしたら現在の五輪さんは存在したでしょうか。
最初に訪れた歌手五輪真弓としての分岐路は、この頃だったかもしれませんね。
五輪真弓に影響を与えた両親の存在
五輪さんの音楽のルーツには、少なからず両親からの影響が関係しているといいます。
特にバイオリンを弾くのが趣味だったという父親の家系は音楽が身近な一家で、敬虔なカトリック信者だった祖父は教会でオルガンを弾いている人でした。
父親がそうだったように、五輪さんも幼いころから音楽のある環境だったのでしょう。
実家には色々な楽器やレコードがあったといい、幼少期から様々な音楽に触れていたと明かしています。
【Special】五輪真弓 インタビュー http://t.co/I3jXO1WDVf pic.twitter.com/b1Owwgrk6A
— Billboard JAPAN (@Billboard_JAPAN) January 22, 2014
一方で母親について詳細は不明ですが、五輪さんが生まれた時にはすでに銀座で働く女性だったとして、自身のエッセイで紹介されています。
「ハイヒールを履き、颯爽と歩いていた母親の姿が印象的だった」と振り返り、母親の天真爛漫で気丈な性格を五輪さんが羨んでいる様子も。
幼少期の頃は両親共働きで、忙しかった母親にはいつもそばにいて欲しかったと思っていた五輪さん。
五輪さんが母親になったときに育児で活動をセーブしたのも、自身が幼い頃に抱いていた母親への思いが影響しているもかもしれませんね。
家ではいつも身近に音楽があったそうですが、父親だけではなく母親も音楽が好きだったのかもしれません。
物語や詩は体験や想像力もよって創られるという五輪真弓さん。
五輪さんが作る楽曲には両親から影響を受けた情景なども描かれているのですね。
強烈な環境だった実家のエピソードと「いつわ書店」
そんな五輪さんが両親、兄姉たちと過ごした家は当時では珍しい2階建てだったそうです。
新築で買ったそうですが、構造が気に入らなった父親がリフォームを開始。
父親は大工などではなくリフォームは素人だったとか。
夜になるとリフォームを始めるそうでなかなかはかどらず、ある日には屋根がなかったり、階段がなかったり、壁もなかったり。
家の四隅をジャッキで持ち上げていたこともあったそうです。
そのせいか、家がいつも寒かったと五輪さんは振り返っていました。
その家については五輪さんが忘れられない強烈な思い出があるといいます。
それは、2階で兄姉と遊んでいたとき急に床が抜け、そのまま下に落ちてしまったこと。
ケガをしたかどうかを忘れてしまうほど、その環境が強烈だったのだそうです。
普通の家で床が抜けるなんていうことは、そうそうあることではないですよね。
それでも晴れた日には太陽と月が見え、窓を開けると北極星が見えたことも忘れられない情景だとも語っています。
それからどれくらいの月日が流れたのかは定かではありませんが、東京にある書店が五輪さんの実家なのではないかという噂があります。
アメブロを更新しました。 『【恋人よ 】五輪真弓 中野新橋の駅前にあった「いつわ書店」が、五輪真弓さんのご実家でした。』 #世界 #中野新橋https://t.co/0PeEm0jYdM
— 長野恭博 (@NaganoMirai) January 24, 2020
「いつわ書店」は中野新橋にある五輪ビルという建物の一階にあります。
実家が書店であるという確証のとれる情報は確認できませんが、五輪さんは自身の公式サイトで、住んでいた実家は中野新橋と明かしています。
また苗字の「五輪」は全国でも90軒しかいないといわれているため、この中野新橋の五輪ビルと「いつわ書店」は五輪真弓さんの実家である可能性が高いのではないでしょうか。
現在、五輪さんの親族が経営されているのではないかとのことでした。
地元民にはおなじみの書店として認知されているようですよ。
全曲フランス語のLPを現地で発売したのは五輪真弓が日本人で初めてだった
デビュー当初から海外志向で注目されてきた五輪さん。
五輪さんは1977年に全曲フランス語のLPを制作しましたが、それを現地フランスで発売。
これは日本人はじめてのこととして話題を集めました。
このLP制作に先駆け、五輪さんがフランス語を習得するために費やした時間は1日6時間。
レコーディング曲の発音練習は1曲に20時間ほどの猛特訓だったそうです。
「それだけにフランス語の特訓が1日6時間。レコーディングのための発音練習は1曲について20時間にも及んだという」
五輪さんの歌声とフランス語の雰囲気がとてもマッチして聴こえるのは、五輪さんの努力もさることながら、やはり歌手としての才能が秀でているからなのではないでしょうか。
この時、五輪さんがフランスに滞在したのは半年ほどで、渡仏したのはこの時が初めてだったそうです。
日本では「えとらんぜ」というタイトルで発売されましたが、フランスでは「MAYUMI」という自身の名前がタイトルになりました。
このLPのきっかけはCBSフランスからの申し出だったといいますから、五輪さんへの評価の高さが伺えますね。
五輪真弓の気になる年収とは
「恋人よ」の大ヒットなどで五輪さんの収入、年収などが気になるところですが残念ながら情報はありません。
当時「恋人よ」がヒットした1980年はまだレコードでの発売でしたが、参考にCDの印税に照らし合わせてみるとどうでしょう。
「恋人よ」の売り上げ枚数が約96万枚と言われています。
100万枚程度のCDが売れると、作詞作曲印税に歌唱印税は3000万円ほど。
その程度かとも思われるかもしれませんが実はカラオケやコンサート、放送などの2次印税がとても大きく、億を超える収入になるのだそうです。
当然、年代によると思われますが五輪さんの年収はかなりの額だった時があるのではないでしょうか。
五輪さんには海外でのコンサートの成功やCMに起用された楽曲もあるので、これまでの収入はかなりのものと思われます。
才能があるからといってすべての人が収入に繋がるものでもなく、五輪さんの才能を生かす努力が実を結んでいるのではないでしょうか。
2023年には72歳を迎えた五輪真弓さんですが、今後も変わらぬ歌声を届けてもらいたいですね。
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